知のインフラストラクチャーとしてのキャンパス空間考

宗本 順三

宗本 順三京都大学のキャンパス計画や校舎の計画にたずさわった経験と、ワークプレイスの知的生産性についての近年たずさわった調査・研究の成果を加味して感想を簡単に述べます。去りゆく者の戯言としてもらえば幸甚です。

日本のワーカーの平均的賃金が世界的にトップクラスになってきた現在、国際的競争力を維持するには知的生産性を高めていかなければ、すぐに後進国に追付かれてしまう、あるいは海外に移転しなければ生き残れないという論理である。部分的にはそれなりに説得力がある。また、工場の生産では世界のトップレベルの生産性を誇るが、一方、知的サービスの生産性では、中位以下である。海外の労働賃金に較べて、高賃金を維持するには、生産価値の向上つまり、知識、技術、感性、サービス等いわゆるソフトの分野で世界をリードする付加価値を生み出し続ける必要性があるという論理である。大学も例外ではなく、何らかの物差しでランキングされる度に、評価方法に問題があるとして無視することがだんだん出来なくなって来ている。私の専門とした建築計画分野では、そのような知的活動のための場を、いかに生み出すかが求められている。そこで問題になるのが、知的活動が「場」すなわち空間のあり方に依存しているのか、創造する人間に依存しているのが問題になる。

人は浪費なり

そもそも付加価値とは何か?生産財を生み出すための投入財に対して、産出物(生産物)の価値が向上しており、しかも、通常得られるであろう価値よりも一層高い価値を有していることを指している。しかし、もっと簡単に考えると、人間は価値を生み出してはいるが、同時に浪費も行っているわけで、機械のようにはゆかない。まさしく生産的である以上に浪費的である。私の人生を振り返っても浪費の方がはるかに多かったと自省する次第である。付加価値を生み出すには、創造性が重要であることは自明である。創造性には、発想が重要となることは誰も否定はしない。発想に適した場所は昔から中国では、三乗(馬上、枕上、厠上)と言われている。つまり、今様で云えば、新幹線や飛行機、電車等の乗車中、ベッドの中、トイレということになる。湯川先生が枕元にノートを置いて思いつくとすぐにメモしたという話は、真意のほどは別にして有名な逸話である。残念ながら、アカデミアや大学がその中に含まれていないのは、大学の空間のあり方を調べてきた人間として、少々寂しい思いである。

近代的かつ科学的方法では、発想を支援するには人間の活動を出来るだけ活性化する方法がとられる。すなわち研究者に出来るだけ快適で理想的な研究環境(建物や広さ、機能、光環境、音環境、温熱環境等)を用意すれば、よりよい発想が生まれるという考え方である。しかし人間は生き物であり、わがままな心を持っている。快適な定常状態にすぐに飽きてしまって、より変化を求める。つまり、時には外気に触れたり、緑に接したり、ぶらぶら歩き回ったり、外光を取り入れたりである。しかも、外部環境は時々刻々と常に変化しているのである。逆にこのような変化を求めるわがままな性格が、新たな価値を生み出す源泉であると考えられる。村上周三氏によると知的活動には、三階層あると云われている。第一階層は情報処理、第二階層は知識処理、第三階層は知識創造である。それぞれに対応した最適空間があると考えられている。しかし、人間の活動は同じ空間で単純作業も知的創造も行わなければならない場合が多く、すなわち第一階層から第三階層間での行為が、ほとんどシームレスに混在している。さらに、第三階層の仕事が多いと言われている職種や職階の人ほど場所に拘束されない可能性が高いことである。つまり人に会ったり、会議をしたり、移動をしたり、会食をしたり等である。しかも、日本のワーカーの場合は、これらは職階と緊密な関係にあり、職階が上がるほど自席での仕事が減り、自席以外の場所で仕事をしている。しかし、職階が上がるほど立派な仕事環境や部屋が与えられているのは、日本だけでなく世界共通であり、大学も例外ではない。生産性や効率性といった概念でははかることが出来ない空間に表された社会的表象であろう。

知の交換の場

次に、大学の校舎について考えて見ると、日本の国公立大学ではただ校舎を造ることで、手いっぱいといえば聞こえが良いが、ほとんどはどのような空間にすればよいか考えられていない。予算が期限ぎりぎりになって付き、あっという間に要求された部屋を並べるだけの設計と、出来るだけ安くて広くて大きな建物を造れば良いといった時代的な風潮が、ほんの10年ほど前までは続いてきた。どのような空間が知的創造性に関連しているのか研究する余地もなく、予算の執行にほとんどのエネルギーが使われているのである。しかし、学生、教員が研究・教育環境から無意識のうちにも影響を受けている現実を考えると、学生を育てる環境はただ機能のみの配列では不十分であることは言うまでもない。多分一番重要なのは、学生同士、あるいは教員と学生が触れあいコミュニケーションできる空間であろう。上述の非定常で教員と学生が触れあいコミュニケーションできる空間は、フォーマル、インフォーマルを問わず、人間の密度と適切な空間的しつらえが必要となる。人と人が接することで生まれるコミュニケーションが重要である。

我が京都大学が誇る桂キャンパスに不足しているものは何かとたずねられると、一番に木陰を生み出す森のような木であり、二番目に人の密度であり、三番目にカフェと図書館であろう。キャンパス周辺の補完的な都市施設も未成熟である。もともと大学は ヨーロッパの中世に、パリやボローニャの都市で飯屋を集まりの場として、塾から出発した知を交換する共同体(ウニヴェルシタス、universitas)を意味することから始まった。そして原っぱを意味するキャンパスが、19世紀のアメリカの大学空間として発明された。従って、ヨーロッパの大学には、キャンパスがない大学も多くある。もともと大学が都市の一部分であった経緯から考えると、知の交換の場には緑あふれる都市的環境が重要である。人を無意識のうちに触発し、自然にコミュニケーションが生まれてくるような空間、すなわちキャンパスライフに重要な影響を与える都市的な空間(キャンパス)こそが、知の創造のためのインフラストラクチャーと云える。これは、単純な機能的ビルディングを集合させただけでは、決して生まれない。100年間ぐらい待つ余裕があれば、話しは別であるが、現代においては意図的にデザインされなければ、決して生まれないことは自明である。

キャンパス空間- 知のインフラストラクチャー —大学と企業—

昨年、世界中の企業の先端的と言われるワークプレイスを調査団として見て回る機会を得た。シリコンバレーでは、グーグルの本社やマーベルセミコンダクター、サン・マイクロシステムズ等、急成長し時代の寵児となった企業は、多様な建物群からなるキャンパスを持っていた。グーグルの本社では、50棟あるうちのどれを見たいのかと尋ねられて、写真を見せて43番目の建物を見せてもらった。しかも、これは10年前にシリコングラフィックスの本社として建てられたものを数年前に買収し、全くといってよいほど手を加えずに居抜きのかたちで使っていた。そこでは、空間的魅力は勿論、食事はすべて無料で、犬を連れて住み着くようにして仕事をしている人も多くいた。キャンパス内で食事をし、アスレティックで汗を流し、リフレッシュして仕事に打ち込むことが出来るようになっている。つまり才能や能力のある人に、出来るだけ長い時間会社で働いてもらうようにあらゆるサービスとサポート施設を備えているのである。年俸制の自由裁量である働き方と、自分の専門分野に集中出来る環境を用意して、ワーカーが成果を生み出し易い環境を整えて、企業の競争力を高めようとしている。このような営利第一主義の企業に至っても、キャンパス空間の持つ知的インフラストラクチャーをフルに活用しようとしている戦略と経営姿勢がありありと見えるのである。

さらに、我が京都大学に振り返って見ると、吉田構内は100年にわたる歴史を蓄えた空間が持つ知の基盤として、高いポテンシャルを持っている。すなわち歴史の中で育まれた都市と一体となった空間は、まさに知のインフラストラクチャーとして雌伏しているのである。しかし、キャンパスをこのような戦略的に使う方法、アイディアや智慧を出し渋っているようにしかみえない。一方では、最新の設備を必要とするips 細胞などの拠点についても、アメリカではラボアワードの受賞作品等で見ると、施設の年々の進化ぶりは目を見張るものがある。これらの施設も究極的には、シネマホールなどを持つキャンパスに行き着いている。大学には、都市的なキャンパスとこれら先端的な要求に柔軟に対処できる空間的な余地も重要である。両者を兼ね備えたトップランナーなるには、よほどの学内的なコンセンサスとリーダーシップがなければ、なかなか難しいのが現状であろう。

(名誉教授 元建築学専攻)