おめでとう、諸君おめでとう

宮川 豊章

miyagawa.jpg第一次ベビー・ブームの尻尾の先に生まれ、京都大学には昭和44年4月に入学した。東京大学の入試がなかったため空前の倍率であったが、何とか潜り込めた。大学紛争の真っただ中での入学であったが、既に紛争は頂点に達していたから、いわゆるしらけ世代のさきがけの頃の世代になるのかもしれない。入学時のクラス集合写真を見ると、同級生の多くは学生服を着、私の勝手な思いからかもしれないが、妙に冷めたきつい目をしている。

入学式に出席しようという熱い思いはあまりなかった。しかも、正常な入学式があるかどうかさえ微妙であった。とりあえず時計台にあった大ホールに行った。入学式は、当時の奥田東総長がホールの入口で叫んだ「おめでとう、諸君おめでとう」という言葉のみであった、ように記憶している。演壇には中核派をはじめとする各セクトの旗がずらりと並んでいた。演壇上のヘルメット姿の学生たちに向かってではあろうが、誰が誰に向かって言っているかは微妙な、「帰れ、帰れ」の怒号が飛び交っていた。しかし、そのような事態に陥ることは当然だろうと思っていたような節がある。

時計台の文字盤のガラスは元々無いものだと思っていた。ゲバラの肖像画が正面に屹立し、夜空に放射する光は迷宮を象徴するようで、感動的に美しくさえあった。時計台周囲ではしょっちゅうゲバルトがあり、最終的には機動隊も踏み込んできた。これが大学なのだ、と思っていた。その結果として大学に期待するところはあまりなかった。しかし、根拠もない希望と意欲だけはあったように思う。

風がそよぐと、時計台近くの木々の葉に残った催涙弾の成分が舞い、通りかかった薄汚い学生の涙腺を刺激し、涙ぐませることになった。乙女がロマンチックに涙ぐむのと大きな違いである。時計台の地下にあった生協書籍部の本にも催涙ガスは長く深く浸み込んでいた。三島由紀夫事件の勃発を友達から聞いた場所も、うっすらと涙目で本を開いていたそのような本屋であった。

晩秋まで講義は無かったように記憶している。単純に講義がなくて喜んでいたが、学問的・技術的には結局大損をしていた。学部、大学院と進んで学ぶときに、基礎の部分がすっぽりと抜け落ちていたのである。その部分を補い取り返すには随分時間を要した。未だに基本的な部分が足りないような気がしてならないのである。講義の重要性、勉学の必要性が身に沁みてわかったような気がする。

まともな感覚が育ち始めたのは、4回生で研究室に配属されてからである。土木紛争はあったものの、岡田清先生、小柳洽先生たちの薫陶を受けて、常識(?)というものが育ち始め、私の専門分野である土木というもの、材料・コンクリートに対する真摯な関心・愛情が生まれた。やるからには世界に伍して競争できる成果を得たいと思った。海外の論文に初めて引用された時は正直言ってうれしかったものである。岡田先生たちには、私の学年は変わっていると常に言われた。先ずは、学生の出身地が北海道から九州まできわめて広い。もっとも、石を投げれば日比谷高校、灘高校の出身者に当たるという状況だった。現在の学生出身地は関西がきわめて多い印象である。

その後10数年にわたる助手の時代を経て講師・助教授・教授と立場は変わった。しかし、助手の時代が一番楽しかった。私は生来呑気だったのだろうと思う。地位が変わらないことにはあまり関心はなかった。何はともあれ自分なりに一所懸命働いてきただけのような気がする。未だに週休二日制ではない。

学生時代に話を戻す。卒業式はあったのかなかったのか覚えていず、少なくとも出席はしていない。修了式については、弟の入試にくっついて名古屋観光をしていて、参加していない。全くいい加減なものである。もっともこれはこれで首尾一貫していると言って良いのかもしれない。

私も定年退職である。しかし、定年にあたって皆さんからいただく「おめでとう」ということばに、つい入学式を思い出してしまうのである。

(名誉教授 元社会基盤工学専攻)