偶然の縁
筆者は、昭和53年3月に石油化学専攻の博士課程を修了しました。53年度は日本学術振興会(JSPS)の奨励研究員(今でいうPD枠:当時はこれのみ)に採用して頂き、DCと同じ研究室で1年間研究を続けました。そのころのJSPS研究員は基本的には1年間で、継続申請してもあまり当たらないこともあり、そのあとは何らかの就職先を探す必要がありました。ところが53年当時は第二次オイルショックという社会的現象があり、工学部9号館の石油化学教室1階にあった求人パンフレット用テーブルの上に載っていたのは、たしか石川県立の高校教諭募集の1枚だけで、会社からの求人は皆無でした。理論化学的な研究で学位を貰い、高校教諭の免状も持っていない人間にとっては、国内での就職は当面絶望的であるように思えました。
ちょうどそういうころに、指導教授であった福井謙一先生の部屋に呼び出され、「ぼくの知合いの米国人で会社をやっている人がいるが、そこで働く気がありますか」と問われました。上述のような理由でどうしようかなと思っていた矢先でしたので、「はい、給料が貰えるなら行きます。」と即答しました。その会社は当時ミシガン州トロイ市(デトロイト市の北15マイル)にあり、主に非晶質カルコゲナイドを用いる電子材料を研究・作製しているベンチャー会社(Energy Conversion Devices, Inc.; ECDと略称)で、その社長(S. R. Ovshinsky)は非晶質材料の研究者でもありました。彼の書いた論文についてはそれまでに読んだこともあって名前を知っていましたので、それほど違和感はなかったとも言えます。
米国での就労ビザ(当時はH-1)を取得するのに多少時間がかかったこともあって、渡米したのは54年6月末ごろでした。米国に着いて契約書にサインし、ECDの正式な社員となりました。その日の夕方に、Ovshinsky社長が自宅に招待してくれました。広壮な敷地を持つその家には室内プールがあり、庭には湖(!)がありました。6月末のミシガンでは午後9時(東部標準時)ごろにゆっくりと日が暮れます。それで泳ごうということで水着を貸してくれましたので(ビジター用の水着が数十着ぐらい用意されていました)、湖で水泳を楽しんだあとに岸に上がり、デッキチェアに座って一休みしながら、グラスにブランデーをなみなみと注いで貰いました。それまでの京都生活とのあまりの違いに、何か自分自身がアメリカ映画の中にいるような錯覚にすら捉われました。
ECDで自分に与えられたメインの仕事は、非晶質シリコン(a-Si)薄膜を用いる太陽電池デバイスの開発でした。正式にはシリコン、フッ素、水素の3元組成(a-Si:F:H)を持つ薄膜ですが、これはRF-グローディスチャージ法、すなわちRFプラズマCVD(化学気相蒸着)法によって作製します。原料ガスにさらにアルシンを混合すればn型a-Si薄膜、ジボランを混合すればp型a-Si薄膜を作ることもできるので、連続的な薄膜作製でp-i-n接合を作って太陽電池デバイスのための基本素子とすることにしました。このデバイス作製はすべて真空下で行いますが、原料ガスの関係もあって、ガラスではなくステンレス製のチャンバや配管を用いました。ほんの数週間前まで理論化学的な研究しかしておりませんでしたので、これらの作業には面喰う点もありましたが、同時になかなか楽しいものでした。
ステンレスチャンバやその中に据える基板台の加工のためには、会社の中のマシーンショップに行って旋盤・フライス盤加工や溶接をする職工さんにこと細かくお願いするのですが、これが錨やバイソンなどのタトゥを二の腕に入れた典型的なアメリカおじさんたちで、慣れない英語をあやつって彼らをせかしたり宥めたりするのは、大変楽しかったことを覚えています。いったい米国深央部の人たちは、世界中が英語を喋っていると思い込んでいるかのごとくで、外国人に対して容赦なくマシンガン英語トークを浴びせてきます。ちょうど”Mission Impossibe”の映画でTom Cruiseやその仲間たちの話している英語の速さや雰囲気に似ていました。それやらこれやらで、チャンバへの配管や圧力計の配置などについては自分で自由に行ってリーク(真空漏れ)テストなども重ねましたが、これも随分と楽しいものでした。
会社が太陽電池開発に力を入れ始めた背景には、筆者の渡米と同年の3月に米国のスリーマイル島の原発事故があり、当時米国が再生可能エネルギーの開発を重点的に促進しようとしていたこととも関係があると思います。これはある意味で現在の日本の状況とも似ており、筆者が所属した会社はこの問題を非晶質シリコンの利用で解決しようとしていたことになります。
それはともかくとして、当時の筆者は理論化学の(それも狭い範囲の)ほかには何も知らなかったにも拘わらず昼間は会社で太陽電池デバイス作製の機器のセットアップやそのランニングを続け、夜はアパートで固体物理学や半導体工学の勉強を行うことが常でした。そのころECDには研究顧問として、スタンフォード大学フーバー研究所のE. Teller(核および分子物理学)、マサチューセッツ工科大学のD. Adler(電気工学)やJ. D. Joannopoulos(固体物理学)が出入りしており、彼らからの知識の移入は新鮮で大変有難いものでした。非晶質材料というものは物理学的には不規則系であり、その理論的研究によって1977年(昭和52年)にN. F. MottとP. W. AndersonがJ. H. van Vleckとともにノーベル物理学賞を受けていました。このMottもECDの研究顧問でしたが、英国在住(Cavendish)のためか殆どミシガンには現れず、議論できなかったことは少しく残念です。筆者自身は結晶シリコンや結晶ゲルマニウムが非晶質に移行したとき、そのバンド構造がどのように歪むかについての理論的研究を、鉛筆と紙(+電卓)を用いながら夜なべ仕事で行い、化学畑の人間でありながらその論文が生まれて初めてPhysical Review B誌にアクセプトされたときは嬉しかった記憶があります。
昭和56年に実家の都合で帰国することになり、日本で太陽電池の開発を行っていた電気系の会社に就職するかなどと思いながら、当面、福井研究室の研究生として京大に出入りさせて頂きました。この年に、退官目前の福井先生がノーベル化学賞を受けられることになり、ちょうどストックホルムにおられた12月16日付けで思いがけず福井研の最後の助手に任官させて頂くことになりました。このようにして石油化学教室へ勤務をし始め、昭和58年からは分子工学専攻に移りましたが、以後永らく京都大学工学研究科・工学部のお世話になりました。もしもあのときに帰国せずにおれば、やがて永住ビザ(グリーンカード)をとり、さらに米国市民になっていたかも知れません。余談ながら、日本人は他のアジア人と比べて米国籍をとる人が少ないそうで、必要な条件をクリアすれば割と速く米国人になれるそうです。そうなっていたら、今頃この文章を書いているはずもなく、少し不思議な気がします。
以上のように、偶然の縁の積み重なりによって、学生時代を過ごした京大でいわば再スタートした教官・教員生活を終え、このたびの退職を迎えました。これも不思議なことで、筆者自身にとってのロングレンジの人生計画(もともと殆どなかったのですが)など全く機能していないことが分かります。思い出すのは、個々の局所的な場面で新しいものに対してそれほど拒絶反応を起こさず、むしろ面白がって飛び込んでいった無鉄砲性しかありません。しかし、これはこれでなかなか楽しいものでした。
短い米国生活ではありましたが、そのときにふれた研究者たちのスピリットの記憶はいまだに鮮明に残っています。例えば彼らは、他人が研究で何らかの面白い成果を出せば、「あ、その後追いをしよう」ではなくて、「あ、じゃこれと全く違うものを探しに行こう」と考える習性や、一つの分野で功なり名を遂げたあとに全く異分野の教科書をドサッと買い込んできて、「明日からこの研究を始める」とスラッと言うような気概を持っています。このような考え方に素直に共鳴できたり、またその後の教員生活でささやかながら活かすことができたのは、畢竟、京大で育てて頂いたおかげと心底気がついたのは、比較的最近になってからです。そういう意味でも京大に感謝すること大であり、長い間本当に有難うございました。
(名誉教授 元分子工学専攻)