それぞれの立場で

朝倉 俊弘

朝倉先生写真1 はじめに

国鉄入社から民営分割を経て23 年半を鉄道技術研究所に勤め、17 年半を京都大学で過ごして、いよいよ定年退職を迎えた。この間携わってきた様々な仕事が頭の中を駆け巡る。特にいろんな出来事を通して、人間はそれぞれの立場で思考や行動が異なることを痛感してきた。本稿ではそのような出来事の中から印象に残る二つの事故・災害を紹介したい。

2 1995 年兵庫県南部地震

当時、私は(財)鉄道総研のトンネル研究室に勤務しており、学位論文のとりまとめの最終段階に入っていて多忙を極めていた。家庭では全てを家内に任せっきりで、中学生の長男と小学生の長女の父親としては何の役割も果たせていなかった。そこに飛び込んできた大地震のニュース。地震発生から約12 時間後に神戸在住の父や親戚の無事が確認できたが、ほっとする間もなく、地震から二日後には、余震活発な中、被害の酷かった六甲トンネルの調査に入り、以降、多くの被災トンネルの調査と復旧支援に忙殺されることになった。

研究所における本来の業務が溜まる一方なので、週末に出勤して何とかこなしていたが、不思議と日曜日の昼過ぎになるとJR 西日本から電話で、「直ぐに来てほしい。」との要請が入った。「今日は日曜なのに出勤していることがよく分かりましたね。」と言うと、「あー、今日は日曜でしたか。すいません、曜日の感覚がなくなっているもので。」とのことである。当事者は、私以上に早期の復旧を目指して多忙であったのだろう。無精ひげを生やし、疲労困憊の顔で「完全徹夜を三日続けると歩きながら寝てしまいます。」と言う人もいて、とても自分が忙しくて大変、とは言えなかった。後日、復旧のために無私の献身をした人々、と称える文書を書いたら、完全徹夜を三日の件はそっと削除されていた。会社としての立場上、労働安全衛生規則を気にしたものか?未だに釈然としない。

六甲トンネルは断層群の中を貫いて施工されたため、建設時にはルートの賛否両論で騒がれたいわくつきのトンネルである。地震によりかなり被害が出たとの情報を知った多くの地震工学やトンネル工学の専門家が調査の希望を申し入れたが、JR 西日本は例外を認めず全て断った。16 ㎞の長大なトンネルでありながら停電のため移動手段が徒歩しかなく、社員がみな多忙を極めて案内の余裕がないこと、被害箇所が多く復旧工事と相まって危険であり、坑内環境も劣悪であったこと(これも書いたらいけないのかな?)等がその理由であったが、「誰もトンネルに入れないのは怪しい、断層がずれているんではないか?」と疑心暗鬼の噂が広まった。私は、復旧指導を託されていたため何回も入坑したが、「何で朝倉だけ?」と白眼視されもした。JR の立場もよく理解できるし、将来の被害軽減のための研究に役立てたいとの専門家の立場も理解できるので複雑な心境であった。

当時の六甲トンネル復旧の担当者とは、いまでも時折り酒を酌み交わす。立場は違っても同じ目的に向かって苦難の時間を共有した、一種の戦友のような気持ちになる。

3 1999 年トンネル覆工コンクリート剥落事故

1999 年6 月に山陽新幹線福岡トンネルでコールドジョイントに起因して覆工コンクリート塊が剥落して走行中の新幹線の屋根を直撃し、引き続き10月に同じく山陽新幹線北九州トンネルで側壁上部のコンクリート塊が落下した。世界一安全と信じられていた新幹線の「安全神話」が大きく揺らいだ。また、時を置かずして11 月室蘭本線礼文浜トンネルで押し抜き剪断破壊による剥落事故が発生した。

当時、9 月末までは(財)鉄道総研でトンネルの専門家として、10 月からは京都大学に転職して、事故調査、原因究明、運輸省鉄道局安全問題検討会の事務局の業務に忙殺された。マスコミに取り囲まれたり、衆議院の運輸委員会で参考人として意見を述べさせて頂いたり、運輸大臣(今の自民党幹事長の二階氏)と昼食をともにしながら意見交換をしたりというような、普通であればなかなかできないような体験もした。家庭では長男が高校生、長女が中学生と大変多感で難しい時期ではあったが、やはり何の役割も果たせていなかった。仕事でやむを得なかったとはいえ、父親失格である。

一連の事故を通じて、当然とはいえ、事故当事者のJR 会社とその他の鉄道事業者の間には若干の温度差があって意見調整もままならず、委員長から「差し戻し、再協議!」との叱責を受けたりもした。また、一連の鉄道トンネルでの事故の余波を受けて緊急総点検に付き合うこととなった道路管理者との間にはさらに温度差があったように思える。当該トンネルを施工した建設会社と他の建設会社の関係も同様であった。最初の事故の後は、他社には緊張感が見られなかったが、2 件目、3 件目となるにつれて徐々に他人事ではなくなってきたように見えた。

運輸省の担当者は、国会に対する対応とマスコミ対応で忙殺されつつ鉄道事業者に的確な指示を出さねばならず、真夜中に何度も電話を受けたものである。口調はお願いでも実質は指示であり、期限はいつも「翌朝まで」であった。徹夜で資料を作って朝一番に届けるともう仕事をしていた。彼らは一体いつ寝ていたんだろう?

マスコミには検討会の結果のレクチャーやら、そもそも覆工コンクリートとは、というような初歩的な取材まで対応した。大変だったが、平等になるよう要請があり、都合がつく限り全社に対応した。トンネルの安全性について正しく理解し、報道してほしかったためである。すべての記者が「大変勉強になりました。よく理解できました。」と帰っていくのであるが、翌日の報道を見ると、安全性を疑うようなどちらかと言えば扇動的な扱いである。言ってることと報道とが違うではないか、となじると「デスクの指示で・・・」とのこと。やはり立場によって姿勢が違うのだ。

面白かったのは、トンネルの専門家とコンクリートの専門家の意見の違いである。コンクリートの専門家に「鉄筋も入っていないトンネルの覆工は、コンクリート工学で扱うコンクリートとは言えない。」と言われたものである。お陰様で、私を含めてトンネル屋さんは発奮し、これ以降、トンネルの覆工コンクリートに関する技術開発が進んで、今のトンネルは出来栄えがずいぶんと良くなった。

4 おわりに

他にも多くの貴重な経験を積ませて頂いた。いずれも多くの人がそれぞれの立場で、己のなすべき事を全うするよう頑張っているのだ。それにしても、私自身は社会的な立場で、すなわち鉄道技術者として、大学教員として、トンネルの専門家としてそれぞれ頑張ってきたつもりではあるが、家庭的にはあまり頑張っては来なかったようである。退職したら時間もできるであろうから、精々罪滅ぼしをしなければならないだろう。

(名誉教授 元社会基盤工学専攻)