No.71 (2019.4) / 随想 / 講義雑感

講義雑感

名誉教授 木村 俊作

木村 俊作web.jpg 講義には、教員と学生との真剣勝負の感がある。その一例。材料化学専攻では、実社会に即した視点に基づく研究開発などの幅広い知識を得るため、産業界から講師を招いて講義して貰う。その講師の一人が、次年度は講師を辞退しますと言われ、理由を問うと、ある学生のレポートが傑出しており、その様な学生がいる集団に教えることは分不相応とのこと。まさに学生に斬られた様子で話された。ところが、その学生は、産業界から招いたその講師が所属する会社に就職する。その話を聞いて、その講師が言うには、私の会社ではその能力を使い切れないであろうから転職するであろう、と。そして、実際、その学生は会社に2年ほど勤めて転職することになる。畏怖の念を抱かせる学生が京大には入学してくる。本当は、学生に畏敬の念を抱かせる教員でなければならないが。
 工学研究科の学生対象の講義「知のひらめき」を担当したときの話。300人規模の学生を相手に講義すると、どのように受け止めて理解しているのかわからない。そのことを知るため、自由記述となるレポート課題を与える。その課題を、「格差社会に繋がる不安定化社会要素と、持続的社会を実現するために工学系出身者が考えるべき行動規範を述べよ。」とした。基本的な知識として講義では、アマ-ティア・センのリベラル・パラドックスと、その解決策としての条件付きのパレート原理を説明し、タレブのブラック・スワンに触れ、最適化よりも無駄の重要性の考えを披露している。その話を聞いていれば、格差社会となる要素は記述でき、後半の課題で土機電化に応じたバックグランドでの考えが述べられるのを期待した。唸らせるレポートがやはり有り、たまたまであるが、その分布は、電/3人、建/1人、化/3人であった。その一人は、講義は熱かった、と書いてくれていたが、そのレポート自体から学生の熱さが伝わるものであった。300人規模の学生を対象にする講義でも、お互いに響き合うことが可能であることを実感できた。7人のレポートはいまだに私の手許にある。
 化学系の学生対象に「高分子材料化学」を講義してきた。AIにも触れるため、対比的に意識の問題を提起する。AIとヒトの脳との間には、渡れない川があることを説明するため、ゲーデルの不完全性定理を黒板全部を使って証明する。ペンローズの皇帝の新しい心の本の内容に沿った証明である。背理法と対角線論法を使った証明なので難しい導出はない。その証明により計算不可能性、つまり、計算機では答えを出せない課題のあることを実感するのが狙いである。続いて、量子もつれの非局所性を説明し、量子ドットの材料へと話が展開していく。毎年40名程度が受講し、20年近く講義を続けてきたが、この証明に感動したと言ってくれた学生は一人であった。流石に20年に一人のために講義をすべきではない。今考えてみれば、AIを「意識」に結びつけるには、どのような課題があるのか、その背景を二コマ程度喋る必用があったように反省している。とは言え、1.5単位を12コマで教える科目では時間的に無理がある。
 英語での講義も、科目は変わっていくが20年近く続けてきた。工学研究科の学生対象である「先端マテリアルサイエンス通論」では医用材料を紹介していた。医療はどの学生にも関係する内容であることから、かなり熱心に学生は聞いてくれていたように思う。例えば、大腸癌や乳癌と食生活との関係、また、発癌二段階説におけるプロモーション過程の期間を延ばす食生活、などから話を始めると、学生はこちらの顔を見つめていることから彼らの関心がわかる。受講生は9割が日本人であったが、感想を求めると、別に日本語での講義を受けたい、との回答。聞き慣れない医学系の英単語には、日本語での説明も加えていたつもりであったが、講義である以上、内容に専門性を帯びるため、英語での理解は難しいと感じた。同じ日本語を使っていても、工学系の私は、用いる単語の違いから、医学系の先生の話を理解するのに1年近くかかったことを思うと、英語での講義についての日本人学生の反応はさもありなん、である。ところが、最近の学生の英語力は確実に向上している。講義の最後の5分を使って、学生に英語での解答を求めると、構成の整った20行程度の英文を立派に仕上げてくる。ただ、スマホが必用な様であるが。
 他大学にも講義に出かけた。10大学程度であるが、中には何年も続けた大学もある。何年も続けている大学では、講義後に黒板まで質問に来る学生が散見されることが一因かと思う。ちなみに、京都大学での講義では、質問に来る学生は何故か皆無に近い。聞きたいことがあっても、自学自習の精神で自ら解決する習性なのかもしれない。研究室に配属になった学生には、とにかく、わからないことは周りの人に聞き、周りの人も答えることで考えが整理されていく、ことを勧めているが、私には切羽詰まらないと聞きに来ない。そのような雰囲気が私にはあるのかもしれない。概して、他大学での講義で、他大学の学生教育に役立っているのかどうか、もう一つ確信がなかった。しかしながら、研究室の学生が私に報告してくれたのだが、勤めた会社の他大学出身の同僚が、他大学での私の講義を聴いたことがある話を聞いて、話が弾んだとのこと。人の繋がりには少しは役立っているのかも知れない。
 講義中の意識の変化を最後に述べたい。講義を始めてかなりの年数を積んでも、常に、学生の関心を引くための枕を用意し、学生の関心を引いた上で高度な知識や考え方をわかって貰いたい一心で講義していた。そのような工夫が効を奏して、およそ、1/3の学生は難しい箇所も聞いていてくれたような気がする。常に学生の反応に気が向いていた。ところが、最近は、話しながら自分でほくそ笑んでいるときがあることに気づかされる。同じことを説明するにしても、多様な考え方が頭の中を行き交い、それらの関係が天邪鬼的であるにも拘わらず、全体として受け入れていることに不思議さを感じるためであろう。教科書的な内容を説明するには、10冊程度の異なる本を読んでおり、それぞれの本の説明の仕方が異なったり、式の導出で同じ過ちが記載されていたり、等々、頭にフラッシュする。最先端の論文に基づく研究の紹介では、その著者と会ったことがあれば人物像や言葉が蘇る。話しながら、頭のあちこちの引き出しが開くため、自分で楽しんでいる感がある。学生には迷惑な話であろうが、私自身が表現されている講義になってきたのかも知れない。

(名誉教授 元材料化学専攻)