10余年ずつ過ごした3か所の職場の思い出

名誉教授 石田 毅

石田先生 写真_web.jpg1.はじめに
 私は1973年に京都大学工学部資源工学科に入学し,1977年に大学院に進学,1980年に大学院博士課程を1年次で中退して, 千葉県我孫子市の(財)電力中央研究所(以下では電
中研と呼ぶ)に就職しました。1991年7月に山口大学工学部に講師として採用され,助教授,教授を経て,2006年6月に京都大学工学研究科に教授として赴任し,この3月に定年退職を迎えました。電中研で11 年3か月,山口大学で14年11か月,京都大学で12年10 か月,計算してみると39年間の勤務を,多少の長短はありますが,ほぼ1/3ずつ異なる3か所の職場で暮らしてきたことになります。この3か所の職場の思い出を順に述べたいと思います。

2.電中研時代(1980~1991年)
 電中研は,私が採用された当時,北は北海道電力から南は九州電力までの電力9社から電気料金の売上高の2/1000の寄付を受け,それを資金に運営されていました。従って,経済的には電力会社の子会社であり,経営トップの理事長も電力会社の元社長や元副社長が天下ってきていました。
 採用されてすぐの新人研修で,電中研の大型コンピュータを電力会社の研究所と接続する計画が紹介され,なぜ大学ではなく電力会社の大型コンピュータと接続するのかと強い違和感を覚えたことを記憶しています。違和感の原因は,電力会社の研究がどういうものかを知らなかったためです。いまでこそ,民間の研究はそれぞれの会社の経済的利益を上げるための非公開の研究が多く,仕事が少ないときに業界の人材を確保して他分野への流出を防ぐための仕事を「研究」としてつくる場合もあり,論文として公表することを前提としている「大学の研究」に比べ極めて幅広い意味を持つものと理解できますが,当時は理解できませんでした。この「違和感」は私の中でその後解消されることはなく,研究テーマの設定や成果の公表に対する制約,ときには出向命令で研究を中断させられる不安,さらには当時職員間に深刻な対立をもたらしていた組合問題への対応とも相まって強い息苦しさとなり,大学への転出を希望するようになりました。
 しかし電中研では,国のエネルギー問題に直結した重要な課題が多く,電力施設の建設現場を利用した規模の大きな実験もでき,さらに電力会社や建設会社,さまざまの調査会社と方々と知り合うことができました。ここでの勤務経験がなければ,研究者として現在の自分はなかったと感謝しています。
 また,電中研で感じた制約は,今から思えば会社組織に勤める社会人としては当然の制約であったと思いますし,稟議システムをはじめとする組織の意志決定の方法もここでの経験がなければ学ぶことはできませんでした。一方会社の場合,経営判断に必要な情報は担当者より組織の上層部の方が多く有している場合が多いのに対し,研究については逆ではないかと感じました。つまり,研究がうまくいくかどうかの判断は,上層部よりも研究者自身の方が豊富な情報を有していると思います。それにもかかわらず,研究所では,会社経営と同様に上層部がトップダウンで意思決定をせざるを得ないため,そこに運営上の大きな矛盾が生じると常々感じていました。このことは当時熟読した「成功するサイエンティスト」(C.J.Sindermann著,山本祐靖・小林俊一共訳,1988年出版 丸善)に書かれていたように思います。この点,大学は極めてフラットな組織で,経営判断をする教授はその分野の専門家であり,このような矛盾は小さいと感じています。昨今の大学のトップダウンの強化は,この大学の組織としての研究上の大きな利点を損なうものではないかと危惧しています。

3.山口大学時代(1991~2006年)
 山口大学工学部に講師として採用され,電中研時代に重苦しく感じていた組織の制約から解放され, 希望通りの自由を手にして幸せを感じました。しかし給料は減り,研究予算も自前で確保するしか方法がないことに気づき,自由を得るには高い代償を払う必要があること,自由には飢え死にする自由までついてくることを痛感しました。
 一方,それまで当たり前にあったものがなくなり,初めて大切なものが何だったかを知ることになりました。ひとつは情報です。電中研時代は,経営層が業界新聞の記事を切り抜き研究員に回覧していました。出張から疲れて帰ると,いくつもの分厚い切り抜きのコピーの束が机の上にあり,それに目を通すのが苦痛でした。しかし大学では,そのような情報に全く触れることができず,急に不安になったのを覚えています。また電中研では,出張に出れば出張報告書を,会議に出れば会議報告書を作成して上司に報告しなければなりませんでした。大学に赴任後,出張報告書を作成して報告に行ったところ,「なんで自分の出張の報告をしに来るのか」と上司の先生が困惑された表情をされ,それを見て大学での研究は組織ではなく個人でするものなのだと強いカルチャーショックを受けた記憶があります。
 山口大学では地域貢献への要請を強く感じましたが,私の場合,地域に貢献できる研究課題を見つけるのは容易ではありませんでした。昨今,国立大学を3種類に分類し,地方大学には地域への貢献を強いる政策が強められていますが,研究分野によっては研究が困難な状況を生みだし,大きな人的,経済的損失を生じるように思います。
 山口大学での15年間の間に,電中研時代の実験データを取りまとめた論文や著書の出版を実現できました。また上司の先生の紹介で海外留学の機会を2 回も得ることができ,また研究室を訪問してくる多く外国人研究者と交流する貴重な機会を得ることができ,私のひとつの夢であった「国際化」を実現することができました。

4.京都大学時代(2006~2019年)
 京都大学に着任して最初に驚いたことは,事務の職員の方がたいへん多くおられることでした。山口大学で私が所属した工学部の学科には,1学年100人程度の学部学生,1学年50人程度の修士課程の学生がいたと思いますが,学科の事務室には事務主任の方が1名おられるだけでした。学生数の違いを頭に入れても山口大学の陣容と比較すると,どう見ても5倍, 10倍の方がおられる計算になり,信じられない思いを抱いた記憶があります。しかし,その後専攻運営や学科運営にかかわる中で,山口大学で教員がしていた仕事を事務職員の方に担っていただいていることに気づき,たいへんありがたく思いました。現在,各クラスター事務が工学研究科に集約されていく方向にありますが,京都大学のよいところがまたひとつ失われそうで残念です。

(元社会基盤工学専攻)