吉野 彰氏のノーベル化学賞受賞に思う

名誉教授 田中 一義

 

田中名誉教授 2019 年( 令和元年)10月にスウェーデン王立科学アカデミーはリチウムイオン二次電池の開発に貢献した米国のJohn B. Goodenough 教授,M.Stanley Whittingham 教授,および日本の吉野 彰氏にノーベル化学賞を授与することを発表した。吉野 彰氏は,現在,旭化成名誉フェローであり名城大学教授であるが,工学部石油化学科における筆者の3年先輩に当たられるという親しみから,本稿では吉野さんと呼ばせて頂く。

 吉野さんは旧石油化学科の学部と大学院修士課程を出ておられるが,学部・修士課程ともに福井謙一先生の弟子のうちの最長老であった米澤貞次郎先生の研究室に所属された。筆者の指導教授であった福井先生は「化学反応の理論的解明」の業績により1981 年にノーベル化学賞を受けておられる。福井研と米澤研にはこのように理論化学的な研究を行う強い流れがあり,もともと両研究室ともこれに沿う研究活動を行っていたことは当然であるが,実験化学的な研究も同時に行っていた。これは理論的研究のみならず実験的研究も重要視するという両先生の方針によるものであるが,メインが理論系の研究室ということもあって,かなり「理屈っぽい」実験的研究を行っていたと思う。その影響は研究室の所属学生にも遍く及んでおり,福井研と米澤研の出身学生の多くはそれぞれ理論あるいは実験を専門とする研究を行っている違いを超えて,一般に経験的色彩の強い化学というものに対して独特のスタンスで臨む雰囲気を身につけていたように思う。それは例えば,常識とされている学問的内容に対しても,いったんそれを疑って自分なりに検証したうえで初めて納得することをよしとするような態度である(筆者はこれを勝手に「非常識的態度」と呼んでいる)。大学・大学院時代に得たこういう原体験は卒業してからもずっと持続するようで,両研究室の出身者には学界,産業界,あるいはそれ以外の領域に身を置いていてもそういうスピリット,言い換えれば「アク」の強さを持ち続けている人が多いような気がする。

吉野 彰氏 (旭化成株式会社 提供)
吉野 彰氏 (旭化成株式会社 提供)
 吉野さんは学部(1970 卒)・修士(1972 修)時代を通じて米澤研の実験部門におられたが,のちほど述べるように上記の意味の「非常識的」スピリットを充分身につけておられたと思える。私自身が学部4回生になって福井研究室に入ったのは1972 年であったので,同年3 月に修士課程を修了して旭化成に入られた吉野さんを近隣研究室の住人として存じ上げることはなかった。むしろ1980 年代に入ってから吉野さんが旭化成で有機電子材料の研究を始められ,私自身も工学部の教官になって形は違うが同材料の研究を一部取り入れるようになって学会などでご一緒する機会ができてから存じ上げるようになった。
 少しだけ時代背景を説明すると,1980 年代初頭から有機電子材料として導電性高分子の研究が盛んに行われるようになってきたが,その応用的研究を目指して産業界も活発化した。化学系の会社では特に住友化学㈱,帝人㈱,東レ㈱,三井石油化学(現三井化学㈱),および旭化成㈱の5 社が特に力を入れていた記憶がある。材料的物質の研究の流れとして,まず何らかの材料ありきから始まり,次にその応用としてどのようなデバイスが考えられるか,という順になることが多い。もちろんその逆に,まず何らかのデバイスを目標に立てて,そのための材料物質としては何を使うかという探索を行う流れもある。
 上記の時代背景もあって1980 年代前半の吉野さんにとっての研究はどちらかというと前者的なものであり,材料にはポリアセチレンという有機導電性高分子を取りあげ,目標デバイスは二次電池ということに設定されたようである。電池にとって必要な要素としてまず正極と負極があるが,これらにどのような材料を用いるかということは重要な選択である。負極にリチウム金属を用いて構成する種々の二次電池はその当時すでに研究されていたが,安全性に問題があった。例えば飛行機やクルマの中で何らかの爆発が起きればいかに危険かということを想像して頂ければよい。
 吉野さんの場合には,Goodenough 教授の開発したコバルト酸リチウム(LiCoO2)を正極に,またポリアセチレンを負極に用いる方式を当初採用され,リチウムイオン二次電池として動作することを確認された。この電池は充電時には正極に含有されているリチウムイオンが非水系電解液を通じて負極に移り,放電時にはその反対に負極に含有されたリチウムイオンが正極に移るという,いわばロッキングチェアのように行きつ戻りつする動きをすることで,まさにリチウムイオン二次電池と表現してよい充放電機構を持っていると言える。また金属リチウムを用いなくてもよい,という安全性を担保できる。その後さらに,ポリアセチレン負極をより安定で耐久性の強い炭素系材料(特許出願ではカーボンと呼称)に替えて安定的な動作確保を目指された。この意味で,吉野さんにとって当初は材料ありきの研究であったが,そのうちに応用目標であるリチウムイオン二次電池の研究が本格化していつの間にかそちらに乗り移られたといういわば逆転現象が起こったことになる。このような逆転時において,何の尻込みもせずにスムーズに跳びこまれたことについては,上記の「非常識的」スピリットが潜在的に有効であったと感じる。

福井謙一先生
福井謙一先生
米澤貞次郎先生
米澤貞次郎先生

  1980 年代半ばから吉野さんを発明人とするリチウムイオン二次電池に関する特許出願が旭化成から陸続となされた。これらに対する他社からの種々の異議申立による拒絶査定に対する不服審判請求や補正を丹念に行った結果,すべて特許として成立している。このあたりの吉野さんの「受け」の強さには,旭化成の知財部門あるいは関連特許事務所の努力とともに瞠目すべきものがある。マスコミなどでよく言及されているように,吉野さんのリチウムイオン二次電池の開発がなければ,これが世の中に出るのはもっと遅くなり,現在の私たちの日常生活で活躍しているスマートフォン,ノートパソコン,WiFi ルーターなどのモバイル機器や,HV,EV 用の車載バッテリーの実現はもっと遅れていたかも知れない。  上記の「受け」を得意とするのも,福井・米澤両研究室に流れていたスピリットの一つであったと思う。筆者にとっては,福井先生が化学反応の理論的解明の大きな根幹となるフロンティア軌道理論の論文を1952年に初めて発表されたあと,世界的権威を持つ学者たちから罵声に近い批判を浴びたにも拘わらず,それらをいちいち覆す実証的反論をされた「受け」の強さと相通ずるものを感じる。
 ちなみに福井先生ご自身は,1981 年のノーベル化学賞ご受賞直後の1982 年春に退官されたあと数年間京都工芸繊維大学長を務められ,その後1988 年から化学産業界からの浄財によって立ち上がった財団法人基礎化学研究所の所長となられた。そしてここでも産業界から派遣された研究者も含めて多くの人材の育成を引き続き行われた。1998 年に先生が逝去されたあとこの研究所は京都大学に寄附されて部局の一つである福井謙一記念研究センターとなり,現在も福井先生のご遺志を引き継ぐ活動を続けている。福井・米澤研究室に根づいたスピリットは,この福井謙一記念研究センターにおける理論的研究に脈々と受け継がれており,時代とともに変わりながらも「非常識的」研究者の供給を続けている。泉下での福井先生と米澤先生は,このたびの吉野さんの受賞を聞かれてにっこりとされているのではなかろうか。

(名誉教授 元分子工学専攻 福井謙一記念研究センター研究員)