賢い人に出会うこと

名誉教授 松原誠二郎

松原先生 長年高大連携に関わり,京都の府立高校生達と話す機会が多かった。「京都大学に入ると何がいいのでしょうか」という彼らの質問に対しては,「自分より賢い人に必ず会えるから」と答えてきた。ホンモノを見極める,面白さを理解する,人の知らない面白いことを見つける,それがこの奇妙な本学で身に付く一番大事な能力だと思ってきた。1977年の4月に工学部に入学し,神戸の阪急御影駅から阪急河原町まで,そして四条河原町から大混雑の201のバスに乗るか,鴨川を渡って京阪の四条大踏切を越え祇園まで歩き,百万遍行きのガラガラの市電206に乗るか,そのような片道2時間を超える日々大旅行をして,東一条に辿り着いていた。当時教養部と称していた吉田南は,最高のテーマパークでもあった。吉田神社の赤鳥居を背景に東一条通りにあふれる特徴ある書体の立て看板,なぜか大きな文字が白ペンキで描かれている時計台,毎日開催されているヘルメット姿の先輩達のアジ演説,その人々の間で時々発生する小競り合い,それらを目にして,折田先生の銅像を正面に見ながら木製の浅葱色の門をくぐり,A号館に向かう,それだけで十分心沸き立つ日々が始まった。授業を教えてくれる先生は,何を言ってるのかわからないが,多分すごいのだろう。わけのわからない授業を理解しているように見える同級生は,皆賢い京大生に見えた。しかし,5月になると,疑念が湧いてきた。ひょっとしたら,周囲の人々には,普通の人が多く含まれているのでは,ということである。5月病とは絶妙な表現で,入学から1ヶ月もすれば興奮もおさまり,自己も見えてくる。自分が進化しても,逆に退化しても周囲の人への憧憬と高評価は下がる。先生の授業は,ひょっとしたらわからないような授業をしているのかもしれないし,同級生達も授業の内容を本当は理解してないのかもしれない。日々大旅行をして通学する自宅生の私は,当初,同級生と踏み込んだ話をする機会がなかったが5月になると同級生とも種々の意見交換をするようになった。そうすると,周囲は「賢い人」ばかりでないということもわかってきた。自分は京大に入っても変わらぬ「ガキ」であったが,少しずつながら知的なことへの「見る目」ができてきていた。やがて,自分は,大通学旅行に耐えきれず,10月から北白川伊織町の歓山荘という古いアパートに下宿を始めた。今でも自分がここの大家さんには世話になっているような,典型的な京都の学生下宿であったが,その立地条件の良さと,自分の気の弱さから,あっという間にT11のメンバーの溜まり場の一つになってしまった。その場で,知的で刺激的な意見を交換し……というようなことは全くなく,今思い出そうとしても全く記憶がないくらい「下らぬ会話」のみが支配していた。しかし,共通の認識があった。それは知的なものへの憧れ,というより「賢い人に会いたい」ということであった。百万遍にあった第一勧銀に派手なニットの肩掛けカバンを持って「ホイホイ」と言いながら歩いている広中平祐教授を見たこともあるし,工学部の授業に潜り込めば,福井謙一教授を見ることもできた。下鴨神社に行けば湯川秀樹先生に会えるらしいという噂を聞き,糺ノ森に皆で行ったこともある。周囲もやはり「賢い人」を探していたことがわかった。
 会話の内容は何も思い出せない時代を経て,4年生になると下宿には誰も来なくなった。自分も下宿の滞在時間は1日4時間程度になっていた。それぞれが,研究室という新しい知的クラスターに取り込まれたからだ。自分も,ノーベル化学賞を受賞された野依良治先生が以前居られた有機反応化学講座野崎研究室に入った。入った動機は,当時助手の檜山爲次郎先生という「賢い人」に誘われたからだ。実験化学の現場は,大文字山が「やうやう白くなりゆく山ぎは」になってから帰るような場所であり,今度は賢いだけでなく,実験の腕というのも重要なポイントになった。しかし,「賢い人」が考えた実験は,嘘のようにうまくいく。こういう事実もやがて判明してきた。吉田神社の鳥居を眺めながらスタートした自分の知的な冒険は,新しいフェーズを迎えることになった。この時点で,「知の真贋」を見分ける力がほんの少しだけ芽生えてきている。そうすると,研究生活をきっかけに,他大学の先生や学生に「賢い人」を探すようになった。今度は,「賢い」という抽象的なことに「専門」という判断基準があるので,多くの賢い人々に会えることになった。そうすると恐ろしいことが起こる。自分の研究に対する自信がどんどん縮小してくる。今の自分なら,当然のことだと思えるのだが,当時は研究を続けていくことへの大きな不安にしかならなかった。そんな時に指導教授の野崎先生にスイスでの1年間の博士課程在籍を命じられた。1年間の海外の大学の在籍は,当時の研究室の決まりごとでもあったが,「お前の高校は,ドイツ語かフランス語で京大受験するんやろ。スイスはどっちでもいけるんや。」という私の母校の大昔の制度を勘違いされていた。普段恐ろしい先生も,私の不安さを見抜き,「言葉ができんかったら,化学ができひんのがばれへん。」と妙な励ましを下さったが,なんとかスイスのローザンヌ大学に向かうことになった。Schlosser教授という方に受け入れてもらったが,驚いたのは「個人」として「大人」として扱われるということだった。何よりも自信なく過ごしていた京大での研究能力が,普通に外国で通用するということに大変驚いた。教授からは,欧州でのPhD取得を勧められた。そうすると浅はかな学生である私は,増長する。野崎先生に「自分はもう先生から学位をいただくことはしません。こちらの大学で学位をとります」と航空便を送った。即時に大変激しいことばで帰国を促す手紙がきた。当たり前で,今の自分ならこの失礼さが十分わかる。ますます増長した当時の私は,「いえ,帰りません」と返事をするという泥沼状態になった。当時は,航空便でやりとりするので,絶妙なもどかしいタイミングにもなっていた。そんな時,野崎研究室の大先輩,今でもノーベル化学賞の候補者として毎年名前が上がる当時名大教授の山本尚先生がスイスの学会に来られた。「君には野崎先生から伝言があるよ」と怖い一言を言われ,2日間にわたって研究者としての心構えを教えてもらった。増長した私にとって,このホンモノの知性に出会えたことは,やや真人間に戻るきっかけになり,以後の全てが決った。「野崎先生,怒ってるよ。本気で心配してるから。」ということがメインであったが,一言一句に「賢い人とはこういう人だ」と十分納得させられた。帰国し,これまた「賢い人」である内本喜一朗教授に拾ってもらい,京大での教員生活を開始した。以降,PDを務めたスタンフォード大のTrost教授,文科省短期在外研究員で受け入れてもらったマールブルグ大のHoffmann教授,研究に助言をいただいた東大の中村栄一教授,研究を支えてくださった吉田潤一教授やその他の様々な「賢い人」に出会い,その度に,自分を変え,鼓舞することができた。
 残念なことに,本当に「賢い人」なのかどうかは,実は時間が経たないとわからないことが多い。そして自分の知的進化につれて,その評価は変わっていく。ほとんどの学生は,大学は通過場所であり,社会に出損ねたものが大学に残っていく。大学に残ったものが教員と呼ばれるものになり,自分はどんどん老化するのに,毎年知的欲求に満ちた20歳前後の若者を迎えることになる。教員は,その若者にとって「賢い人」でいられるのかどうか,素直に自問する必要がある。自分の教養部の学生時の人文地理の授業で「京大で先生に期待するな」と暴言のような真実なようなことを言われたことも忘れていない。ただ,客観的真実は「賢い人」か否かを判断するのは学生の自主的な行為であり,学生のその重要なポイントに判断時間を与えることなく自身のことを無理やり当てはめさせようとする教員の行動は深刻なハラスメントであるということだ。私は,自分が彼らの目標になりえないということを理解している。学生達には,「賢い人」を教え,研究室のメンバーにはそれらの人に会える機会をできる限り設けてきた。今でも私は,賢い学生をみると,本当に嬉しくなる。そしてその学生と,研究したり議論したりすることに勝る楽しみはない。ただ,その賢い学生達が,今後紆余曲折を経て悩んでいくのも知っている。どうか頑張ってその苦労を楽しんでください,心から応援しています。

(材料化学専攻 2024年3月退職)