見慣れなかった熱力学変化

牧野 俊郎

牧野私は1968年に京都大学に入学した。以来45年にわたって京都大学にお世話になった。思えば充実した45年であった。その間ご指導いただきあるいはおつき合いいただいた京都大学の教職員の方々・学生諸兄には篤く御礼申し上げる。 私は熱工学の分野にいて、熱力学をはじめ熱とふく射の関係の教育にあたり、おもに表面の熱ふく射性質に関する研究をしてきた。ここでは、その間私には印象的であった熱力学の経験について記す。  もう何年も前のことであるが、私の尊敬する熱工学の大先生が学会の講演で、圧力p が増加し同時に体積V も増加する変化、あるいは圧力p が減少し同時に体積V も減少する変化は存在しうるのであろうか、という問いかけをなされた。つねづねよくお考えになる先生の言であったので、その問いかけはその後ずっと私の脳裏に焼き付いていた。

そういえば、高校の物理の教科書には、理想気体の定圧変化、定積変化、定温変化、可逆断熱変化が示されているが、p とV がともに増減する変化は明には現れない。大学の熱力学の講義では高校の教科書にはない自動車やガスタービンのサイクルなどの実際的なあたりにも話が及ぶが、そこでもp とV が ともに増減する変化は明には現れない。ただ、大学の講義では高校の教科書にはないおまけが付いていて、理想気体と見なせる気体のすべての変化は近似的に式 pV n=const. の形で表されるとしている。すなわち、ポリトロープ指数n を0、1、κ、+ ∞と置 くことによってそれぞれ定圧変化、定温変化、可逆断熱変化、定積変化を1つの式で表し、また、この代表的な4種の変化には近似できないより実際的な変化もn に適切な値を与えることにより表現できるとしている。ここで、特徴的に、n はn ≧ 0 である。図1すなわち、図1で、点Oを出発点とする変化はOの周りの影つきの領域にしか及ばないことになる。 いっぽう、p とV がともに増減する変化は、この表 現によれば負のポリトロープ指数nをもち、その図では未開の領域にある見慣れない熱力学変化であることになる。その後、大先生は考察を進めて、負のポリトロープ指数が実現する条件を明示されたが、私にはしっくりと来ないままであった。それは、大先生が示された条件からは見たままの具体的な系が見えなかったからである。

ところで、気体に熱を加えるとその体積が増し、逆に冷却するとその体積は減少するというのは熱力学の基本中の基本である。熱力学の講義では、その基本が暗に圧力が一定に近いという条件での加熱/ 冷却を想定していることを述べたうえで、その基本はあなたにとって知識か経験かと学生に尋ねる ことにしてきた。知識とは、中学校の先生がそうであると仰った、高校の教科書にはそうであると書いてあった、ではそうであるに違いない、そのような経緯で得られた天下りの知識を指す。いっぽう、経験とは、何かそのような現象を見たことがある、感 じたことがあるなどの当人の五感を通じて身についたあたりを指すつもりであった。大部分の学生は素直に知識であると答え、ごく少数の学生は黙って考え始めた。ならばお見せしようと教室で実験をやって見せることにしてきた。教室に液体窒素を運んで大きいビーカーに移し、ゴム風船を大きく膨らませてその液面に押し付ける。すると、風船は縮んで張りがなくなるまでに小さくなる。風船を液面から離すと風船は膨らんでもとの大きい風船に戻る。私はこの実験を学生に熱力学の基本を体得させるために やってきたつもりであった。しかし、ある年、この風船の中の気体は、その実験の過程で圧力p と体積 V がともに増減する負のポリトロープ変化を経ていることに気づいた。風船の中の気体は風船のゴムの張力に抗してV を増すためpもVも同時に増加し、逆もまた然りであることに気づいたのである。こんな身近なところに負のポリトロープ変化を見出すと は、それまで私には想像できなかった。

それより後に、高校で理想気体の定圧変化、定積変化、定温変化、可逆断熱変化を学んできた高校生向けに熱力学の問題を作る機会があった。といっても、その問題は実際に使われることはなかった。それは図2に示す系についてのものであった。

図2

系を厳密に記述するためにいろいろなお断りをした後であれこれ尋ねるものであるが、その一部を省略形で述べると次のようなものである。シリンダーの中の長 いピストンの両側には、初期には状態Oでp、V、 T がたがいに等しい同種の理想気体AとB が入っている。気体Bは断熱されている。気体Aをゆっ くり加熱していくと、気体A とB の状態はどのように変化するか、その状態変化の軌跡をp-V 図に表せ、というものであった。ポイントは、ピストンが伸び縮みしないことと、ピストンの両側の圧力がたがいに等しいことだけである。答は図3に示すとおりである。図3

曲線A は曲線B と左右対称に描かれるべきである。気体B は可逆断熱変化し、いっぽう、気体Aは高校や大学の教科書に明には現れない負のポリトロープ変化をする。しかし、この問題は高校物理の範囲を越えていない。私は高校物理の範囲で 負のポリトロープ変化の一例を見出すことになった。これは、その問題の作成の前には想像できなかったことである。私はまた見慣れなかった熱力学変化に巡り会った。

(名誉教授 元機械理工学専攻)