社会における大学のスタンスについての雑感

吉田 治典

吉田 治典私は本学の工学研究科建築学専攻修士課程を修了後、民間の建築設計事務所に勤務しました。就職して7年ほどたったある日、恩師から大学に戻らないかというお話を頂き、さんざん悩んだ末3年後に転職を決めました。結果として、工学部・工学研究科に本年3月の定年を迎えるまで勤めさせて頂きました。転職を悩んだ理由は、設計の現場にいる自分に京都大学にふさわしい研究ができるのだろうかという自信のなさでした。

ところで、大学と企業あるいは社会との距離やヒエラルキーは時代と共に変化するものです。そして、この距離やヒエラルキーがダイナミックに変化し、社会へのいいインパクトとして作用している間は、その社会は活性化し健全さを持続できるのだと思っています。私の卒業当時は、社会の頂点にあることを自負していた大学が紛争で荒れ放題となり、社会の権威の在り処が判らなくなってしまった時代でした。しかし、企業も社会もイデオロギーの違いが少々あっても目をつむって大学を卒業する若者の活力を吸収し、「団塊の世代」で知られるように、結局は、様々な新しさが花咲くことになりました。一方、当時の社会状況は戦後の高度成長における最期の繁栄であって、近々、世界は終焉を迎えるのだと実しやかに論議されたものでしたが、事実はそう簡単ではなく複雑に展開しました。

さて、紛争後10年を経た私の転職当時には、企業も社会も大学を役立たない存在として無視する傾向にあったように思います。紛争の後の喪失感と相まって、方向性を失ったかに見える大学と若者は世間からさほど注目されることなく、企業は、京都大学の卒業生は磨けば光る玉だから欲しいけれども、特段、教育の質に期待はせず、企業の再教育システムに自負心をもっていた時代だと記憶しています。そんな折、福井謙一博士がノーベル賞を受賞され、社会も企業も基礎研究の重要さに、はたと気づくようになりました。私自身も企業人の目線で研究を捉え、役に立つ研究をしたいと思っていた矢先の出来事でしたから、基礎研究の重要さに世の中が注目し始めたことは、私にとっても迷いの始まりとなりました。結局私も、ノーベル賞とは天と地の開きがあるとはいえ、しばらくは私の分野である程度基礎的な研究に浸り、そのおかげで研究成果の意味を常に自問する毎日となりました。

大学における基礎研究とは何か、私にはこのような大それた問題に自問自答をする資格はありませんが、一つだけ思うのは、基礎研究を隠れ蓑にして、企業や社会はもちろんのこと、他の研究者にも刺激を与えることのない研究を基礎研究だとして正当化することは避けねばならないという戒めです。こうした研究は自己満足のための研究に過ぎないと信じています。ただ、ある研究が、未来において役立つか役立たないかの判定は難問です。しかし、企業にも社会にも役立たない研究であっても、その分野の研究者に刺激を与える研究であればいい。それが基礎研究なのだろう、と私は考えています。私の場合、何が研究者にとって刺激的な研究なのかは国際学会に参加することで判断しました。多様な価値観がある国際学会の場では、かつて日本の研究者が懸命に取り組んでいたのに、今ではもう人気のない基礎的な分野の研究が折々に見られ、再認識させられたことが何度かありました。その中には、多くの日本の若手研究者にとっては理解することすら難しい研究もありました。こうした研究は、企業や社会には役立たず、科学研究費でサポートして貰おうと思っても日本では意義を認めて貰えないため採択されることが少ないのです。そのためか、最近、どうも若手研究者の基礎研究指向がおろそかになっているように思えます。

周知のように、最近、大学で大きく変わったのは平等な研究予算配分方法から競争的研究資金による配分へと移行したことです。その結果、現在最もホットな、ある意味では最もファッショナブルでポピュラーな研究に皆がチャレンジするため、基礎能力を養うことが必要な若手研究者までもがこの種の研究に引き込まれ、成果のレポーティングに忙殺されているように見えます。基礎研究指向がおろそかになるのはこういうことに起因すると考えますが、いかがでしょう。最近定着している競争的研究予算による配分システムは、悪平等ともいえる過去の方法が改善されていて長所が多いとは思いますが、沢山の基礎分野があるなかで、どのようにして、かつどの分野の基礎的研究を綿々と続ければいいのかという戦略を考えて予算を配分しないと、近々、世界の中だけではなく、アジアの中でさえ日本の基礎力のなさが顕在化し存在感が薄れるのではないかということを危惧します。この背景の一つに、大国といわれながらも、我が国には、まだ地道な基礎研究に予算を投入する余力や姿勢が不足しているということもあると思います。

昔が良かったというのは不平たらしいし現実味がないと思います。何とかして、何が重要かつ不可欠な基礎研究なのか、特に若手研究者にチャレンジをして貰うにはどういう仕組みと方策が必要なのか、こんなことを次の世代の先生方が、検討して頂ければと願う次第です。さて、現在、大学と社会や企業の距離は私の知る限り最も縮まった時代だと思います。しかし、残念なことにヒエラルキーとしては大学が両者の僕として扱われているようにも思えます。研究だけではなく、教育や社会的責任においても、大学の社会的意義を無視して過度の要求がなされていることは多くの方々が感じるところではないでしょいうか。予算を配分してやっているという行為によって、そうしたヒエラルキーが生まれるとすれば由々しきことです。現在、日本の政治は混迷を極め、政権交代が起りました。大学もかつての紛争ほどではないにしろ、社会との距離とヒエラルキーを再構築するための大きな変革が必要なのかもしれません。

以上、自からの非才を顧みず、私が博士課程の若い人材を指導していて常に不安を感じていたことをベースに思いを述べさせて頂きました。

社会における大学のスタンスについての雑感

スイスの学会で全員がコックになるというイベントの1コマ

(名誉教授 元都市環境工学専攻)