わたしの履歴書

工学研究科長・工学部長 椹木 哲夫

椹木先生 次期研究科長に決まって最初の依頼がこの原稿の執筆でした。新研究科長・学部長としての所信を表明すべき機会なのでしょうが,2017年度〜2018年度の副研究科長・評議員の離任後2年間は工学の執行部から完全に離れていました。したがって,いまこの時点で何が課題として山積し,何をどう解決していくかをお約束できるような状況にはありません。むしろ,この場においては,先般の研究科長候補者選挙において選任いただいた自分が一体誰なのか,自らの出自について,あえて一人称で語らせていただきます。

 生まれも育ちも京都市ですが,詳しくは洛外の左京区岩倉の出身で,今はさておき私が育った当時は,洛中の方々にはまさに世隠れや隠遁の場にふさわしい僻地とみなされていたようなところでした。小学6年生の時のアポロ11号の人類初の月面着陸の偉業に釘付けになり,振り返ればこの出来事が今の専門の道に進むきっかけになりました。中学に入って間も無く,アポロ13号の「Successful Failure(輝ける失敗)」と評せられる爆発事故からの奇跡的生還のニュースに,絶望視された3名の乗務員を無事地球に帰還させた米国航空宇宙局(NASA)の技術力と人間力,組織力に感銘を受けました。いてもたってもいられず中学3年生の時に,当時姉の一家が滞在していた米国ヒューストンを単身訪ね,NASAのジョンソン・スペース・センターの宇宙船指令室(Mission Control Center)を目の当たりにして米国のテクノロジーに圧倒されました。その後,高校時代には航空機パイロットを真剣に目指そうとした時期もありましたが,操縦者になるよりも,その操作を支援したり人の操縦を代替したりするシステムをつくるための研究の方が必要とされる時代になるよとの助言を受け,大学は京都大学工学部機械系学科に進みました。そして,修士課程,博士後期課程を経て(京都大学工学博士),1986年から京都大学工学部精密工学教室助手に就き,助教授を経て2002年から教授,現在は工学研究科機械理工学専攻で機械システム創成学分野を担当しています。専門はシステム工学です。青年期に焼きついた米国の魅力を引きずり,1991年〜1992年には米国スタンフォード大学客員研究員として1年間あまり米国に滞在し,「人と機械からなるシステム:人間機械系」に関する学術研究分野があることを知り,当時の人工知能研究の最先端に触れて,以来「人間機械協調系デザイン」というテーマを一貫して追いかけてきています。教授昇任後は,京都大学理事補(研究・国際担当)ならびに京都大学国際交流推進機構副機構長,国際交流センター長等を兼任し,専ら京都大学の国際化に関する役職を兼担してきていましたが,その後2017年から2019年まで京都大学評議員を,工学研究科では副研究科長・工学部副学部長の役職に就きました。

 いま思い返しますと,工学研究科執行部との最初の関わりは,荒木光彦研究科長(2003年〜2006年在任,現在名誉教授)のときで,国際関係でドイツ国ミュンヘン工科大学と京都大学でジョイントシンポジウム「日本におけるドイツ ”Frontier Sciences”」の開催(2005年10月6日〜7日)を準備せよと指名されたのが最初でした。次の西本清一研究科長(2006年〜2008年在任,現在名誉教授)からは,工学研究科の国際を担当せよとのことで初めて執行部(運営会議)構成員となりました。同研究科長のもとでは,工学研究科として採択を受けた経産省・文科省による「アジア人財資金構想」『産学協働型グローバル工学人財育成プログラム』(2007年度~ 2011年度)の実施責任者を指名されました。また当時副研究科長の森澤眞輔教授,長谷部伸治教授(ともに現在名誉教授)らと文科省科学技術振興調整費「イノベーション創出若手研究人材養成」プログラムに工学・薬学が合同で申請した「先端技術グローバルリーダー養成プログラム」(実施期間:2008年度〜2012年度)が採択され,その中で特に産官学の連携および異分野交流を目的とした「産官学交流塾」を5年間にわたって実施しました。
 以上の工学での経験を糧に,2012年から現在に至るまで博士課程教育リーディングプログラム「デザイン学大学院連携プログラム」(通称,京都大学デザインスクール)の開発に取り組んできています。これは,個々の人工物を超えて,社会のシステムやアーキテクチャをデザインできる人材の育成を目指し,情報学・機械工学・建築学・経営学・心理学および芸術に関わる教員が協働する教育プログラムですが,私にとっては「アーティファクトデザイン論」の新たな科目を開設して教科書も発刊でき,これまでの人間機械系に係る研究・教育活動の集大成とすることができました。

 以上が,私がこれまで歩んできた道のりですが,この歩みの最初の一歩を踏み出すきっかけになったのが,21世紀COEプログラム「動的機能機械システムの数理モデルと設計論」(2003年度〜2007年度)の経験でした。これは当時航空宇宙工学専攻の土屋和雄教授(現在名誉教授)を拠点リーダーとして,工学研究科の機械工学分野と情報学研究科複雑系専攻(当時)等との連携のもとで実施した博士課程教育プログラムで,私自身もサブリーダーの一人に指名され申請の段階から関与して来ましたが,そのときの他の2名のサブリーダーは小森悟教授と北村隆行教授(ともに現在名誉教授)でした。奇しくもその後3名ともに工学研究科長・工学部長を務めることになったことは,何とも不思議なご縁です。
 そもそも21世紀COEプログラムというのは,国が教育においても競争的資金獲得のために諸大学を競わせ,国際競争力のある世界最高水準の大学づくりの推進を謳った最初のプログラムでした。いわば高等教育の現場に向けられた「外圧」のようなものでしたが,個別の専攻単位での組織では歯が立たないと考え,新しい機械工学の教育研究に向けて当時の機械系4専攻(機械工学専攻,機械物理学専攻,精密工学専攻,航空宇宙工学専攻)が一体化することを念頭に申請を準備しました。そして採択後の2005年度には,現在の機械理工学専攻,マイクロエンジニアリング専攻,航空宇宙工学専攻の3専攻体制に改編しましたが,COE申請に際しては,以下のような議論がありました。
 まずは,機械工学という学術分野が直面する問題は何かを考えることから議論を始めました。当時の機械工学の分野は,成熟した分野で高度かつ多様に進化を遂げてきたものの,それぞれの小さな分野でタコ壺化が起こってきており,概念の共有が研究者相互の間で難しくなってきていることも感じ始めていました。アナリシスとシンセシスの間の共通言語が無くなってきているのではないかとの危惧から,それぞれの専攻が独立にやってきたやり方を統合していく必要があるとのコンセンサスに至りました。ただその実現のための障壁は,孤立した研究者集団をいかに研究者組織にもっていけるかということでした。「研究者の組織」と「自主的な研究者」とは時として相反するものです。京都大学の研究者には「ミッション達成型の共同研究プロジェクト方式」は馴染まないであろうとの認識から,COE運営方針は,共通の問題意識を共有することのみとし,緊密な情報交換と多様な研究発信・発想により有機的なネットワークを醸成すること,そして何より自主的で自由な研究を進めてもらうこととしました。いわば「基礎研究型の共同研究方式」であり,力学・複雑さ・情報を基礎概念とする21世紀の応用力学を機械系から発信して行こうとの意気込みでした。
 いまあの当時を振り返ってみて,本当に大学教員・研究者として健全かつ前向きな議論が行われていたことが懐かしく思い出されます。個人研究の牙城たろうとしたセクショナリズムの結果,悪しき意味での専門家になりかけていたところを,COE拠点構築を通して,研究者それぞれの専門の立場から不完全なところを互いに共有し合うことで新たな繋がりが「創発」されることに気づかされました。
 以上,長々と自身ならびに自身の分野に偏った戯言や昔話を綴ってしまいました。ただ申し上げたかったのは,十数年前に機械工学分野の中で私自身が感じていた思いは,工学というより大きな組織に対して責任ある立場になったいまの時代においても,同じように大切にしていきたいということです。
 定年退職まで残された最後の2年間をどのように自由に過ごそうかと夢を思い描いていた直近の過去を忘れ,いまはこの残された2年間を「滅私奉公」で頑張りぬきたいと考えています。ただ言葉ほどに悲壮感や責任感は感じてはなく,むしろ,遭遇する試練や新しいトライアルを楽しみながら,これまでの自身の限られた経験を支えに,新たな運営会議構成員の皆様からの知恵・知見を頼りとして研究科・学部を運営していきたいと考えています。そして何より,すべての教員・事務職員・技術職員の皆様のご協力とご支援を深くお願い申し上げる次第です。

(機械理工学専攻 教授)