アメリカ留学の想い出

名誉教授 戸田圭一

戸田圭一

 40年ほど前になりますが,京都大学大学院工学研究科の修士課程を修了した後,アメリカのアイオワ大学大学院の博士課程に在籍して約4年間,アメリカ中西部の田舎町で留学生生活を送りました。大学の水理研究所(IIHR -Hydroscience & Engineering)が研究室のような位置づけになっており,そこで多くの外国人学生とともに水理学,流体力学,それらに関係する応用科目を勉強しました。当時,水理研究所にはアメリカ人だけでなく様々な国籍の教員が在籍しており,国際色豊かな環境のなかで勉強していました。
 博士課程に在籍していても,修了要件として博士論文の執筆と同じくらいのウエートで授業の単位履修のコースワークが必要でした。このコースワークがなかなか厳しいもので,毎回のように宿題が課され,期末試験に加えて複数回の中間テストが実施されていました。宿題は問題演習やレポート作成など様々で,演習では,電卓,時には簡単なコンピュータでの計算が必要なものもありました。実際の現象をいかに扱うかを意識した内容が多く,戸惑うことも多かったですが,まさに鍛えられているということを実感しました。
 博士課程に入学して1年から2年の間に筆記試験と口頭試験からなる「総合学力試験(comprehensive examination)」がありました。劣等生ではないものの,優秀な学生とも言えなかった私は,この試験に合格するまではまさに勉強漬けの日々を送りました。
 筆記試験は,出題範囲があってないようなものでした。過去の出題問題も見ましたが,問題の難易度が参考となった程度で,傾向と対策など考えることもできませんでした。何とか筆記試験に合格した後,5名の教員による口頭試験を受けました。運よく自分が進めていた研究内容に関連した質問があったりして,手ごたえは感じましたが,当時の水理研究所長の質問にうまく答えられず,追試験となりました。所長からは「この本をきちんと読め」と本を2冊渡されて2週間勉強しました。追試験後,所長から合格を伝えられた時は,本当にほっとしました。
 振り返ってみて,多忙をきわめておられた所長が,一留学生の教育指導でここまで親身になってくださったことに対して心から感謝するとともに,今でも尊敬の念を抱いています。
 博士論文の執筆は,日本にいた時の研究室の,精力的な研究活動に私も参加していましたので,コースワークほどの辛さは感じませんでした。ただ,英語の原稿を指導教員に提出するたびに,赤ペンで,「これでもか」というくらいに修正を加えられて返却されてきました。回を重ねるごとに,だんだんと修正量も減ってはきましたが,指導教員から受けた丁寧な指導には今でも頭が下がる思いです。
 今思うに,インターネットも電子メールもない時代に,それまで暮らしてきた日本の京都という環境とまったく違うところで,26歳から30歳まで一人で4年間暮らした,という経験は,私にとってとても大きなものでした。
 勉強に関しては,最初は,胸に日の丸をつけているような気負いがあり,また日々の生活においても,ある程度予想はしていたものの,英語力のなさから疲れることが多々ありました。引っ越してアパートの部屋に電話回線を引くとき,電話でオーダーしたのはいいものの,後日送られてきた電話帳に「Keiichi TODA」の名前はなく,もしかしてとPの欄をみたら,「Keiichi PODA」と記載されていました。おじいさんが一人でやっている床屋に行ったところ,少しそろえてもらうはずが,ばっさばっさと髪の毛が床に落ちていき,翌日から常に帽子をかぶることになりました。このような話は枚挙にいとまがありません。生活に慣れるのに,最低でも1年,自分らしくふるまえるには1年半ほどかかったと今では思います。
 何とかPh.D.の学位を取得して,ポスドクで短期間研究員をした後,帰国しました。留学によって得られたのは,「この先,どこでもなんとか生きていけるだろう」ということでした。これが自信かどうかはわかりませんが。あと,「様々な人がいて,様々な人生を送っている」ことを肌で感じたことです。
 大学の国際化が叫ばれて久しいですが,若い研究者や学生の皆様が留学や国際交流をいっそう進めていかれることを期待しています。若いときに色々なことにチャレンジすることが重要であるのは論を待ちませんが,研究の幅を広げること,自分自身の視野を広げるといった面でも,留学や国際交流は大きなチャンスになると思います。また日本に来ている外国人研究者や留学生たちとも積極的な交流をいっそう図っていかれることを期待しております。

(経営管理研究部/社会基盤工学専攻(ダブルアポイントメント)2022 年 3 月退職)