「甘受」と「享受」の背中合わせ

名誉教授 村上正浩

村上正浩

耕運機で田を耕す風景(1962 年ごろ)
耕運機で田を耕す風景(1962 年ごろ)

 筆者は終戦から10年程した頃に富山県砺波市の稲作農家に生まれた。家の前を流れていた小川の水を産湯に使って,産婆さんに取り上げられたそうである。生家の納屋には,田んぼを耕すための牛が一頭だけ飼われていた。やがて耕運機が導入されて,代わりにそれまで家業を支えてくれていた牛が不要となった。牛がトラックに乗せられて去る日に,幼児の筆者と祖父が牛と一緒に撮った写真が残っている。祖父も筆者もどことなく淋しそうな表情である。その後1964年の東京オリンピックを機に訪れた高度成長期に,日本中の農村部で農作業の機械化が一気に進んだ。耕運機の次に,籾(モミ,殻付きの米)を熱風で乾燥する乾燥機が導入され,さらに稲を刈って束ねるバインダーが続いた。バインダーは後にコンバインに進化して,刈り取られた稲はコンバイン上で直ちに脱穀(籾を稲ワラから分け取る作業)されて,籾にまでできるようになった。収穫されたばかりの籾は生籾(ナマモミ)といい,水分を26%程度含む。水分を多く含む生籾をいきなり堆積すると味が変質して,いわゆるヤケ米ができてしまう。これを防ぐために,コンバインの上で袋に溜められた生籾は,すぐに作業所の大型の乾燥機に移されて温風の通風により水分量が約15%になるまで乾燥される。温風の熱源は灯油である。一方乾燥機の導入以前の籾の乾燥はというと、お天道様の力に頼る他なかった。手刈りされた稲は束ねられた後,田んぼ一面に拡げられて天日干しされた。日暮れが近づくと,夜露に濡れないように数箇所に集められ,稲穂を中心にして円柱形に積み上げられた。円柱の頂上は前の年のワラでつくった「帽子」で被われて,円錐形を呈した。これをニオ(稲積)と呼んだ。

ニオのスケッチ
ニオのスケッチ

ニオの中ではワラがクッションとなり,籾の変質がゆるやかになりヤケ米にならなかったのであろう。余談になるが,クロード・モネは「積みわら(Haystacks)」と呼ばれるシリーズの風景画を25点も描いている。収穫期の田園風景もあれば冬の田園風景もあるが,一貫して麦畑に積まれた積みわらをモチーフとして取り上げている。モネが好んで描いた風情は,筆者の子供の頃の記憶の中にある稲のニオ周りのそれと重なる。同様な麦ワラのニオは,ファン・ゴッホが最後の2年間に描いた「麦束の山と刈る人」などの作品群にもしばしば見られる。さて話を戻そう。夜が明けて陽が昇ると,ニオに積まれていた稲は再び田んぼ一面に拡げられ,天日に晒された。このような拡げたりニオに積んだりして籾を乾燥する作業が,一週間でも十日でも繰り返された。もちろん雨の日もあり,その間稲はニオに積まれたままである。秋の長雨にあえば,ニオの中での変質が懸念される。そのため,短時間でも晴れ間があれば,積み降ろしの手間を惜しまずに田んぼに拡げられた。天気予報がはずれて空模様が急に怪しくなったりすると,何をさておいても一家総出で四方に散らばった稲を走り集めて積み上げた。そんな労働集約型の作業によって,籾は積んで貯蔵できるような水分量にまで乾燥された。さらにその後,脱穀と籾擢り(籾殻と玄米に分ける作業)を経て農協への出荷に至った。この刈り取りから出荷までの一連の作業にかかる労働時間は,その後の機械化により約20分の1に短縮されたといわれている。

左:米の水分測定のために使われていたマイクロ籾摺り機(1967年ごろ)右:1964 年東京オリンピック記念 100 円硬貨(当時はまだ百円紙幣が流通していた)
左:米の水分測定のために使われていたマイクロ籾摺り機(1967年ごろ)右:1964 年東京オリンピック記念 100 円硬貨(当時はまだ百円紙幣が流通していた)

 乾燥機が導入される以前の日本国民は,主食として天日で乾燥された米を食べていた。今となっては,当時の米の味がどんなものであったかを知る由もないが,お天道様の力を借りて手間暇をかけていたからには,うまかったと信じたい。そうだとすれば,刈り取りから出荷までの一連の作業に膨大な労力をかけることを生産者の農民が甘受し,それと引き換えに消費者側の国民はそうして出来上がった米の至高の味わいを享受していたことになる。この甘受と享受の背中合わせは,それぞれの受け手が異なるので多少不公平な感じが否めない。
 筆者の専門は有機合成化学・有機金属化学である。実験では,水を全く含まない乾燥有機溶媒を使用することが多い。筆者が大学院生だった頃は,単体の金属ナトリウムを乾燥剤として用い乾燥溶媒を自ら調製した。単体のナトリウムは,一見灰色の粘土の塊りのように見えるが,ナイフで切ると切断面はまばゆいばかりの金属光沢を発する。反応性に富み,溶媒中の僅かな水分とも反応して除いてくれる。高活性である分,扱いには難儀した。水やアルコールなど活性プロトンをもつ化合物と接すると,瞬時に激しく反応する。少量であってもパチッという音と共に火花が出る。ナトリウムから発した火花が有機溶媒に燃え移って実験台の上で炎が上がるのを初めて見ると,大方の学生は頭が真っ白になり,声も上げられなければ手も動かない,いわゆる金縛りの状態に陥ってしまう。上級生のサポートを得てなんとか大事に至らずに済むといった冷や汗ものの出火経験を重ねて初めて,炎を見てもパニックにならずに落ち着いて適切に対処できるようになった。慣れてくると,ナトリウムよりさらに発火性で危険な金属カリウムをも安全に扱えるようになった。危険は至る所に待ち受けている。本質的に危険なものを,事故を回避しながら安全に扱うテクニックを身に付けるためには,潜在するリスクを賭して,つまり事故を起こす,あるいは事故に遭う可能性を受け入れて体験学習するほかない。出火時の消火法を教える動画を100回見ようが1000回見ようが,いざ実験台で炎を目の前にした時の心中の動転や狼狽を経験することはできない。ナトリウムを扱う実験を行う本人は,火災に遭うリスクを甘受して,引き換えに発火性の厄介な化合物を安全に扱うスキルを享受していたといえる。一方大学院生にナトリウムを扱わせていた指導教授は,自分の研究室で火災が発生するリスクを甘受して,引き換えに学生を一人前の実験化学者に育て上げるという教育実績を享受していた。この甘受と享受の背中合わせは,受け手が同一なのでフェアな感じがする。
 現在はというと,高品質の乾燥有機溶媒が購入できる。購入すれば,ナトリウムで火災を起こす危険を100%回避でき,しかも実験が捗るので,学生自らが乾燥溶媒を調製することはどの研究室でもまずない。筆者の研究室の博士課程の学生でも在学中に一度も金属ナトリウムを扱うことなく卒業していく。当り前だが,発火性の金属化合物を扱うテクニックは身に付いていない。ナトリウムを扱った経験のない学生を化学技術者として社会に送り出していることに関しては,正直忸怩たる思いを抱いて教育者としてのキャリアを終える。
 定年退職者の特権と心得て,臆面もなく若かりし頃の昔話をさせていただいた。至る所に「甘受」と「享受」が背中合わせであった。時代は移り,「ゼロリスク」,「安心・安全」,手間を省いて簡便に済ますという意味での「省エネ」などの,耳聞こえは良いが空手形のようなフレーズが世の中を跋扈している。「手間」や「リスク」という代償を甘受することを回避した上で,目先の「益」や上辺の「善」だけを享受しようとする姿勢が,果たして真により良い社会をもたらすのであろうか?「甘受する」の目的語と,「享受する」の目的語が背中合わせのセットであることは,いわんや先人も「虎穴に入らずんば.....」という警句に言い残している。

(合成・生物化学専攻 2022 年 3 月退職)