時知りてこそ人も人なれ

名誉教授 小林哲生

小林哲生.png 苔寺として有名な西芳寺や嵐山に近い京都の西,桂御陵坂の中腹に京都大学の桂キャンパスがあります。縁あって生まれ育った北海道から,春には桜,秋には紅葉の大変美しい京都の街に移り住んで 18 年が経ちました。この3月で定年を迎え,これまで大変お世話になってきた関係の皆様に心から感謝申し上げます。この度,工学広報への執筆依頼を頂き,少し堅苦しい感じもしましたが専門である脳機能研究の一端を紹介させて頂きたいと思います。
 桂キャンパス内でもご存知ない方が多いのですが,キャンパスに隣接する北側の竹林の中には,実は明智光秀軍が丹波亀山城から出陣し本能寺に向かった経路の一つである唐櫃越(カラトゴエ)があります。この明智光秀の三女が有名な細川ガラシャで,37 歳の若さで亡くなる際に以下のような辞世の句を残しています。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 解釈は一通りではないと思いますが,私自身は「人も人なれ」にとても惹かれます。
 人は,自らの存在の意味を考え悩む地球上唯一の生物です。さて,それでは“考える”とはどういうプロセスなのでしょう。また,“悩む”とはどういう脳の働きによるのでしょう。現在,脳の様々な働きが次々と解明されてきていますが,未だに分からない多くの謎も残されています。特に,意識や精神,創造性といった,人を特徴づける高次機能に関しては,分からないことばかりと言っても良い状態です。私は,このような人の人たる所以である脳の働きのメカニズムを解明し,認知症をはじめとする精神・神経疾患の克服や病気や事故で視覚や聴覚といった感覚機能に障害をもった人のための機能代行といった分野に役立ちたいと願って研究を行ってきました。

両眼視野闘争は意識の謎を解く鍵?
 私は大学院では電子工学を専攻し生体に加わる電磁界の数値解析の研究を行なっていました。博士の学位取得後すぐに札幌にある私立大学の講師として採用され,27 歳でしたが独立した研究室を主宰することになりました。そこで,当時一番興味のあった人の視覚系の研究にテーマを大きく変え,以降,“両眼視野闘争”と呼ばれる視知覚現象の研究をライフワークとして行なってきました。研究を開始した当初の 1980 年代は,工学系の学会等で発表しても,両眼視野闘争を知っている人もおらず,注目されることもほとんどありませんでした。しかし,1990 年代後半頃になってDNA の2重らせん研究でノーベル賞を受賞したことで知られるCrickらが中心となりNatureをはじめ神経科学の論文誌等で両眼視野闘争の重要性を主張したことが契機になって,以来この両眼視野闘争が認知脳科学の重要テーマとして脚光を浴びることになりました。
 両眼視野闘争とは「左右の眼に異なる競合する視覚刺激が独立に呈示された場合,交互に見える」という,一見単純に思われがちな現象です。それでは,この現象の何が重要なのかというと,物理的には左右の網膜上に視覚刺激が与えられ続けているにも拘わらず,一方の刺激が見えている時,他方の刺激が見えないという点です。意識研究の突破口として期待されてきた両眼視野闘争ですが,その脳内プロセスは,現象の発見以来 180 年以上を経てなお解明されていない超難問です。しかし近年,特に機能的磁気共鳴画像(fMRI)や脳磁図といった脳機能計測法の発展により解明の手がかりが報告されており,両眼視野闘争は,一次視覚野,高次視覚野,頭頂連合野,前頭連合野といった相互に結合している機能領域間の情報統合プロセスの結果生ずるらしいのですが,未だにそのプロセスは謎のままなのです。そこで,私は既存の脳機能計測法の課題を克服できる量子磁気センシング技術開発とその脳機能の解明や医療,福祉分野への応用研究に取り組んできました。

光ポンピング原子磁気センサと次世代脳機能計測システムの産学連携研究
 私の研究室では,MRIを中心とした機能や形態の計測とイメージングを主要なテーマとしてきました。MRI は,現在広く臨床における画像診断に用いられていますが,近年,超低磁場 MRI への関心が高まってきています。研究室では, SQUID のような既存の磁気センサを凌ぐ超高感度光ポンピング原子磁気センサ (OPM)を中心に研究・開発を行ってきました。さらに,OPMを用いて脳磁図などの生体磁気信号の同時計測も可能なマルチモーダルな超低磁場 MRIシステムの実用化を目指しています。OPM のように低周波数帯域で超高感度な磁気センサを用いれば,静磁場強度が 10mT 以下で MRIを撮像可能な超低磁場 MRI の実現も可能であり,形態と機能の同時計測を可能とする次世代の脳機能計測システムとしてその開発に大きな期待が寄せられています。
 この研究は,私が着任して 3 年目に京都大学とキヤノンとの 10 年間に渡る大型の産学連携プロジェクト(CKプロジェクト)の一環として開始されたものです。CKプロジェクトで行った研究の成果は幸いにも国際的に高い評価をいただき,2018 年 8 月,米国フィラデルフィアで開催された第 21 回国際生体磁気学会 (Biomag2018) において,国際医用生体工学連合 (IFMBE) から隔年で与えられる当該分野で最も権威のある国際賞として知られるJames Zimmerman Prizeを授与されました。末文の写真がBiomag2018 での受賞講演後の記念写真です。この場を借りて,ご支援とご協力いただいた関係者の皆様に報告と感謝を申し上げます。

脳機能ネットワーク解明の医工連携研究
 上記の他に,研究室では 2014 年度から開始された国家課題対応型研究開発推進事業「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト (Brain/MINDS)」の一員として,MRIを用いて脳内の水分子の拡散情報を捉える拡散 MR 画像 (Diffusion MRI) の新たな解析法の研究も進めてきました。医工連携研究により大学病院において撮像された統合失調症・大うつ病などの臨床画像データに対して,白質神経線維の自動抽出並びに各神経線維束に沿って病変を反映する拡散情報を定量的に求める新手法を開発し,各疾患群と対照とするマッチングのとれた健常者群の拡散 MRI データを詳細な解析と比較・検討を行うことで, 疾患横断的・疾患特異的な病態神経回路の同定を目指して研究を行ってきました。
 開発した拡散 MRI データの自動解析法においては, 全神経線維束の自動クラスタリング並びに各神経線維束に沿った拡散情報のプロファイル解析が可能であり, 精神・神経疾患の疾患横断的・特異的な病態神経回路の同定と病態解明において, 安静時 fMRI(resting-state fMRI)から得られる機能的結合情報に対して相補的かつ重要な構造的結合情報を提供できることの意義は非常に大きいと考えています。ただし,拡散 MRI は,高磁場 MRI での撮像が必要といった制限があり,今後は精神・神経疾患の病態解明,診断,治療効果の評価を超低磁場 MRI によって可能とする新技術について医学並びに産学連携により研究を進めることが必要と考えています。

 私は子供の頃から科学と音楽が好きでした。大学時代はクラッシックギターのアンサンブルのサークルで,バッハやレスピーギのギター編曲版などの合奏練習に明け暮れていました。卒業後はギターからは遠ざかってしまいましたが,ピアノは今でも趣味として続けています。私が研究テーマとして選んだ「脳機能の解明」は想像以上に難しいもので,未だに大きな壁が立ちはだかっています。研究で疲れた時,いつも音楽が心を癒し立ち向かう勇気を与え続けてくれています。定年を迎えた今,「散りぬべき時知りてこそ」を心に留めて,これからも好きな科学と音楽をささやかでも続けながら,残りの人生を楽しんで行ければと願っています。

(電気工学専攻 2022 年 3 月退職)

米国フィラデルフィアで開催された第 21 回国際生体磁気学会 (Biomag2018) における国際医用生体工学連合 (IFMBE) の国際賞 James Zimmerman Prize 受賞講演後の記念写真(左から IFMBE 前会長,筆者,IFMBE 会長,Biomag2018 大会長)
米国フィラデルフィアで開催された第 21 回国際生体磁気学会 (Biomag2018) における国際医用生体工学連合 (IFMBE) の国際賞 James Zimmerman Prize 受賞講演後の記念写真(左から IFMBE 前会長,筆者,IFMBE 会長,Biomag2018 大会長)