細部に宿るものは神か?それとも?
「神は細部に宿る(Der liebe Gott steckt im Detail)」という言葉がある。19世紀のドイツの美術史家ヴァールブルク,あるいは20世紀初頭の建築家ミース・ファン・デル・ローエが言ったとされるこの言葉は,いろいろな意味で示唆に富んでおり,さらに驚くべきことに,主語を「悪魔」に変えてもほぼ同じ内容を示すというほどになかなか奥深い。以来,現在に至るまで,学者,芸術家,実業家,果ては政治家など多くの人々によって,また多様な場面においてこの言葉は用いられている。私は,35年の長きにわたって表面科学,ナノ科学,とりわけ原子間力顕微鏡(AFM)による微細な世界の研究に携わってきたこともあり,しばしば多義的に用いられる言葉ではあるが,本来的な意味においてこの言葉に合点が行く場面に遭遇することも多々あり,いつしか共感を覚える言葉の一つとなってしまった。
顕微鏡の歴史は16世紀末のオランダの眼鏡職人のヤンセン父子の発明に端を発するが,同時期に登場した望遠鏡とともに徐々に発展し,17世紀中盤には,中学の理科に出てくるフックの法則でお馴染みのロバート・フックが微生物を観察し,その観察像を「顕微鏡図譜」(Micrographia, 1665)として出版すると,当時の人々に大きな影響を与えた。日本に顕微鏡が登場するのはこの約100年後で,「顕微鏡」という名称もこの頃に付けられたようである。日本最初の顕微鏡は,江戸後期となる1781年に,大阪の小林規右衛門により作られた独特な形状をもつ木製の顕微鏡で,現在でも,京都・木屋町二条にある島津製作所創業記念資料館に展示されていて,その姿を見ることができる。
顕微鏡においては,どれくらい小さいものが見えるか(空間分解能)が最も重要な性能因子である。光学顕微鏡の場合,レンズによる光の集光サイズがこれに相当し,古典波動光学において有名なアッべの原理あるいはレーリー条件で記述され,観察光の波長とレンズ性能(開口数)で決まることになる。この空間分解能は2点識別能とも呼ばれるが,異なる2点から得られる観察信号が識別可能となる最小の距離に相当する。光学顕微鏡に限らず,電子顕微鏡や原子間力顕微鏡(AFM)など,顕微鏡の種類が何であれ,空間分解能はこの2点識別能で定義される。2点識別能の障壁となる因子は,状況に応じてさまざまなのだが,究極的には観測系に付随する原理的な揺らぎ・雑音である。
AFMでは,ミクロなばねと探針から成る力検出センサーと,このミクロばねの動きを測定するレーザー光によって試料表面の局所的な相互作用力を測定し,試料の各点で得られる測定信号をマッピングすることで観察像を構成する。測定信号は試料各点での相互作用力の距離依存性を示すが,これが上記の2点識別信号に相当する。この信号を阻害する雑音の起源を特定するに当たっては紆余曲折があったのだが,喧喧囂囂議論百出の末,測定レーザー光によってもたらされる外部雑音とばね自身のブラウン運動(=熱雑音)が原因であることが分かった。すなわち,原理的な雑音は熱雑音であり,2点識別信号は熱雑音で決定されることが分かった。実際,外部雑音を十分に低減することによって,測定の熱雑音限界を達成することができ,当時,液中環境下では困難であった原子間力顕微鏡による原子・分子分解能観察を実現することができた。
実は遥か昔の京都大学に赴任する前,工業技術院・計量研究所(現産業技術総合研究所)において研究を始めた頃,同じ実験室にいた上長が,捻りばねに固定された鏡のブラウン運動を検出して温度の絶対計測に応用するという研究を行っていた。当時は,何だかとんでもなく不思議なことをやっているという印象しかなかったが,後に捻りばねがシリコン微細加工ばねに変わっただけで,ほぼそっくり同じような実験に注力することになり,因果応報のような因縁を感じた。
ところで,AFMのばねの熱雑音がブラウン運動を引き起こしたように,AFM探針と観察試料表面との近接相互作用はばねの運動に影響を与え,ばねの運動のエネルギー散逸をもたらす。このエネルギー散逸は,熱雑音とは異なり,観察試料表面の有用な情報を含んでいる。実は,いささか唐突ではあるが,熱平衡下にある微視的分子揺らぎと巨視的応答とを結びつける揺動散逸定理(線形応答理論)がこの測定系に適用できるのであれば,試料表面にある原子・分子の運動を直接計測できることから,当時は非常に注目され,個人的にも並々ならぬ関心を抱いていた。その後,個々の原子・分子における主要な応答周波数領域が極めて高いところにあることから,その効果は桁違いに小さくなることが判明し,大変残念に思ったことをよく覚えている。とは言え,エネルギー散逸情報が試料の微視的表面状態を反映する貴重な物理・化学情報であることには間違いない。ただ,この散逸を引き起こす要因は,試料およびAFM探針の表面の微視的構造,局所物理・化学状態の変動など多岐にわたることから,依然重要な課題として残っている。
一方,AFMの測定探針が観察試料に接近して近接相互作用が増大すると,急速に散逸エネルギーも増大する。さらに接近すると,表面下の試料内部の構造・物性情報を反映するようになるが,こうした情報の取得は,ナノスケールの表面下イメージング・内部診断計測へと発展して行くことが予想され,今後の研究展開が多いに期待される。
本稿では,企画広報担当の皆さまのご好意により,特に帰結のないままの雑感を当て所なく綴らせていただいた。AFM屋にとっての研究の場となる表面科学の世界には「神は固体(バルク)を作られたが,表面は悪魔によって作られた」と言うヴォルフガング・パウリの箴言がある。表面科学では細部に宿るものが悪魔であることが最初から織り込み済みなのかも知れない。
(電子工学専攻 2022年3月退職)