京都市立芸術大学におけるアート教育の紹介 (Art-Science Link Worker 育成の急務)
京都大学名誉教授 / 京都市立芸術大学客員教授 富田直秀
キーワード 京都市立芸術大学,わたくし学問,Art-Science
Link Worker,アート演習,総合基礎実技
はじめに,アート視点の重視
筆者は京都大学機械理工学専攻の教員を 2021 年に退職した後,京都市立芸術大学(以後京都芸大)の客員教授として,アートの視点を社会活動や科学・技術に生かすための様々な経験を重ねてきました。経済社会におけるアート視点は欧米においては早くから注目されていましたが,日本での動きは比較的遅く,2020年代に経済産業省がアートと経済社会にかかわる研究活動を開始して以降 1),アート的な視点が経済界においても注目を集め続けています。多くはイノベーションや新たな価値創出の源泉として創造性教育にかかわる活動ですが,瀬戸内エリアにおける地域再生例などの結果を受けて,地域経済戦略としても注目されています。京都大学でも,たとえば「京都クリエイティブ・アッサンブラージュ」(代表:山内裕)による価値創造人材の育成が,京都芸大や京都工芸繊維大学と共同で推進されました。
一方において,芸術大学の側からこれらの動きを眺めると,たとえば,経済的な成功,といった目的が先に与えられた problem oriented な文脈には,少なからず抵抗感もあります。たとえば,東京藝術大学長の日比野克彦氏は,「一人一人違っているということを受け入れることができることこそがアートの持つ力なのだ」と述べて,目的の設定とその達成,といった文脈とは少し異なった立場も表明しています 1)。
筆者は,アート視点とは何か,を論ずる立場にあるわけではないのですが,本文章では,一部の教育関係者の間で「奇跡の授業」と噂される京都芸大の「総合基礎実技」に,新入生とともに参加させていただいた経験をお話ししてみたいと思います。その第一報はすでに工学広報 No. 76 にご紹介しているのですが 2),その後さらに芸大生たちとともに 5 年間を過ごし,その経験から,アートの側から覗く社会の変化をご紹介したいと思います。
なぜ奇跡の授業なのか
京都芸大の「総合基礎実技」は,京都芸大の美術学部に入学したすべての新入生が,所属する専攻の枠を超えて半年間にわたり共通の課題に取り組む実技授業です。多くの教員がかかわって,毎年異なる大小 10数題程度の課題が出題されます。芸術を志す学生のための授業ですが,これを可及的に模したワークショップ 3)が,企業や大学院における(いわゆる)創造性育成としても注目を浴びています。
(いわゆる)と付記をしたのは,この授業が創造性育成といった目的とその効果をうたった一般の授業の形態には収まらない性質を有しているからです。たとえば,2025 年度の後半の小課題の一つに次のようなとても短い課題が出題されました。前半の授業で,学生たちは市内各所を「うろうろ」と歩き,それぞれの場所での経験を絵や版画や写真に表して提出しました。後半のこの小課題では,学生が数名のグループに分けられ,それまでに提出した様々な写真をわたされて, 10 分の時間内で各班 1 枚ずつのコラージュ(複数の写真などを切り貼りして作品にする表現)の作成が課されました。筆者もコラージュ作品の作成は初めてだったのですが,5 年間の訓練?のおかげか,たとえば矢印の入った画像を使って画面に方向性を表現して視線を誘ったり,写真の中の様々な画像を組み合わせて不思議な空間の感覚を作ったりして,グループ作業に加わっていました。すると,ある教員が「私にもやらせてくれー」とグループに加わると,わざと技術的な作業をはずして,一見無秩序に,写真を張り始めます。
つまり,その課題は,見栄えのいいコラージュを作成するための技術習得を目的としていたのではないわけです。写真に込められた意味や時間をいったん壊して,意外な組み合わせを発見していく。その失敗や成功の中からそれぞれの「いま・ここ」を体験する場であったわけです。創造の場においては,このように,「想定できない異質な外部との遭遇」が必要です。極論をするならば,失敗をすることにこそ意味があったわけですが,だからといって,もちろんのこと,ただむちゃくちゃであればいいわけでもありません。
教員側の「教える」という義務または欲求を可及的に抑えて,学生側の自発を尊重する教育現場は工学にもあります。けれどもたいていの場合は,そこには「レベル」が存在していて,教員はそのちょっと高い「レベル」から学生たちの行為を(言葉は悪いですが)見下ろしているわけです。京都芸大のアート教育においてもレベルが存在しないわけではありませんが,学生も教員もそういった「レベル」で測られる梯子のような上下関係を取り払って,中ずりの不安定な状態で目の前のモノやコトに対峙します。たとえば,既成の基準からみた「上手さ」よりも「へたくそ」がより珍重され,また時として「できてしまう」と嘆き,「こだわれ」「妥協するな」「中途半端に完成させるな」「ナルシストになれ」2,4)といった言葉が学生に投げかけられます。これらは,既存の評価軸をはずれた多様な個性や,わからなさを受け入れる姿勢の教育でもありますし,「できる」という技術よりも,「できない」という関係性から学ぶ共創の姿勢であるのかもしれません。もちろん,多くの教員は「高い」と評価される技術や「強い」世界観を不可避に持っており,学生の多くもそういった「高さ・強さ」に憧れるのですが,それでもあえて積極的に既存の尺度にかからない,高・低や強・弱といった評価では表され難い,それぞれが生きている根っこのところから目を離さない教育環境が受け継がれているところに,この授業の奇跡があるように思います。
学びの多様化
2016 年に教育機会確保法が制定されました。これは,いわゆる不登校となる若い人たちの急速な増加を反映して,多様で適切な学習活動の探索が国や地方公共団体の責務となったわけです。小・中・高校などの学校内だけではなく,学校以外の場での多様な教育が見直され,フリースクールや,様々な居場所つくりなどの活動も活発化しています。また,学びの多様化学校という,文科省が指定する学校も,2023 年 4 月には 24 校であったものが 2026 年 4 月には 84 校に急増しています。
京都芸大におけるアート教育の現場で筆者が目の当たりにしたのは,一般社会の中では排除されていたかもしれない人たちの生き生きとした活躍です。たとえば,どこか学習障害的であって,その独特な世界観のために周囲から浮いていることが,ここ京都芸大ではすばらしい才能として羨ましがられる場面も多々あります。つまり,京都芸大は 40 年以上も以前からすでに学びの多様化をはじめていたことになります。また筆者は,小・中・高校や大学,企業などで京都芸大におけるアート教育の紹介やミニアート演習を試していますが,授業の後に「あの子が,あの人が,あんなに生き生きしているのを初めてみた」という感想も耳にします。
既存の「高さ・強さ」に振り回されない多様な価値観を受け入れることの重要性は,すでに多くの分野において詳しく述べられているので,この文章では省略をしたいと思います。たとえば多くの要素が関係し合うシステムでは,ある要素が強すぎることによって全体の持続が危うくなることや,システムが多様性を失えば,大きな環境の変化を超えて存続できないことなどは自明のこととして,この学びの多様化という教育現場の改革がどのような問題を孕み,そうして,今後どのように変化していくだろうか,といったことを考察してみたいと思います。
誰もがハラスメントの加害者であること
多様化教育の将来に関して考える前に,ハラスメントに関して述べておきたいと思います。それは,多様な個性を受け入れる姿勢,とは,一方において強い世界観によるハラスメントも許してしまう環境である可能性があるからです。
筆者は医師免許を取得しているため,京都大学在職中には工学研究科のメンタルヘルス対応のお手伝いもしていました。その現場で教えられたのは,不登校に陥る原因となった教員や友人の多くは,自身が加害者であることをまったく自覚していない,という事実でした。このことから類推するならば,筆者自身も,また,この文章を読んでおられる読者も,だれもがいじめの加害者側である可能性を否定し得ないことになります。たとえば,いかに正しい事実や論理,または優れた世界観を述べていても,その表現に「高さ・強さ」があり,その「高さ・強さ」によって虐げられる人がいるならばハラスメントは発生してしまいます。
たとえば,筆者がかつて働いていた医療現場では,どうしても,患者さんに対して医療スタッフの側が強者となってしまう場面があります。そういったとき,医療スタッフには積極的かつ明示的な「弱さ」の表現が必要になります。たとえ医学的に正しいとされる医療行為であっても,その行使には徹底的な当事者視点の優先が必要です。たとえば,筆者がまだ整形外科の研修医であった時,手術を明日にひかえたある患者さんから「まさか手術中に死ぬなんてことは絶対にないですよね?」と聞かれました。筆者が,「絶対,ということはありませんが,その可能性は 0.00 何パーセント以下ですよ。」と応えると,「たとえ,0.00 何パーセント以下でも,手術中に死ぬ可能性があるならば,わたし手術を受けるのをやめます。」と言って自宅に帰ってしまいました。筆者は,間違った情報を伝えたわけではありませんが,弱者となって患者さんに寄り添う「しぐさ」に欠けていたのだと思います。また逆に,臨床現場では客観視に徹して毅然と行動しなければならない場面もあります。たとえば,ある先輩医師は「痛みは患者持ち」と研修医たちに語りました。それは,たとえば「痛そう」という感情によって医師が冷静に行わなければならない行為が妨げられる場合もあるからです。
誤解を恐れずに述べるならば,正しい事実や論理または優れた世界観といった「高さ・強さ」の表出の場では,不可避にハラスメントが発生します。医療現場に限らず,生活の場においては「高さ・強さ」の裏側に寄り添う姿勢がなければ,多様な関係性が持続することはあり得ません。それは本来,理屈で教えられる対象ではなく,わたしたちが,それぞれの生活の中で自然に身につけていく「しぐさ」だったのだと思います。
「高さ・強さ」の裏側の「低さ・弱さ」の表出が,それぞれの生活の中で自然に身につけていく「しぐさ」だった,と過去形で述べたのは,現代の若者たちにとって,そういった「しぐさ」さえもが設計され,行為として教えられる世の中になってきたからです。
Art-Science Link Worker 育成の急務
ここまで,アート視点をproblem orientedな問題解決のための「力」として用いる社会の動きがあること。京都芸大の「総合基礎実技」は,高・低や強・弱といった評価では表され難い,「いま・ここ」という存在感を大切にする教育環境を実現していること。それは,現在注目されている「学びの多様化」への先例となり得ること。そうして,正しい事実や論理または優れた世界観といった「高さ・強さ」の表出がハラスメントとならないためには,人に寄り添う「しぐさ」が必要であること,などをお話ししてきました。
筆者はアート云々に関して偉そうに述べる立場にはありませんが,以上の経験から,「学びの多様化」が遂行されるのと同時に,「低さ・弱さ」を受け入れるArt-Science Link Worker の育成が急務であろう,と考えています。Art-Science Link Worker とは,わからなくとも,できなくとも,実感を大切にして人に寄り添い,お互いに「おもしろがる」ことのできる人や環境の総称です 5,6)。
郡司ペギオ幸夫氏は,AI の発達によって,定量化し評価し比較する能力主義が全面化する現代では,異質なものを受け入れて,想像もできない外部と開かれる「天然知能」が重要となることを述べています.そうして天然知能の性格として「ダサカッコワルサ」を挙げています ⁷⁾。Art-Science Link Worker の育成においても,「高い」と評価される技術や「強い」世界観を有している教員が,あえてその梯子を外され,学生たちと共に失敗し,未知の外部に翻弄される「ダサカッコワルサ」が必要だろうと考えています。
蛇足ですが,筆者は長期入院児や,学校に行かないことを選択せざるを得なかった人たちとの接触も経験しています。まったくの主観であるのですが,様々な出会いの中で「すごい」と思えるのは,どこか「ダサカッコワルイ」人たちであったことを思い出します。あの漫画「ちびまる子」の中でおじいちゃん役の,さくら友蔵のように。わけのわからなさを受け入れて,お互いにおもしろがったり,かなしんだりできること。「学びの多様化」のみならず,これからの AI 社会において平和を守ることができるのは,「低さ・弱さ」を受け入れる Art-Science Link Worker なのだろう,と考えています。
わたくし学問 8,9)
学者は事実を述べ,さらに論理的考察を加えて論文などの形で成果を発表します。けれども論文のような制度には載せがたいけれども,確かに価値がある,と実感できる経験が研究や臨床における地道な作業や失敗の中にあることも事実です。筆者らは,そういった論文化の難しい価値をも学問の枠内に捉える可能性を考えて,それに「わたくし学問」という名前を付けて,様々な分野の研究者や芸術家たちとの交流を行っています 8)。たとえば「秘話」といった物語形式 ⁹⁾や, NHK 番組の「プロジェクト X」のような映像形式も,わたくし学問の表現なのかもしれません。
図 1 は,某企業との開発検討会議において,その会議の最中に参加者に作っていただいた作品です。会議の冒頭にそれぞれ好きな色のモールを選んでいただき,そのモールで「手いたずら」しながら議論などが進行します。「手いたずら」で作るものは会議の内容と関係していても関係していなくてもよく,話の先が見えなくなった時などに,それぞれの作ったものを見せ合ったりしながら会が進行します。この「手いたずら」がどんな効果をもつか,を言いあてるのは難しいのですが,すくなくとも,お互いに思いもよらない感性をお互いに「おもしろがる」といった雰囲気がそこに生じます。
また,図 2 は,2025 年度の京大サマーデザインスクール 10)で,「学問的方法に問いかけることば,もの」と題したワークショップを行い,参加者(学生や研究者)の学問的な行動を立体のコラージュ作品として表現してもらったものです。前述のように,コラージュとは,複数の写真などを切り貼りして作品にする表現ですが,ここでは,箱形の空間の中に立体造形物として表現してもらいました。たとえば,自身の過去の論文を切り取って貼り付けたり,研究に使った道具,研究内容を象徴的に表す造形,写真,象徴的な言葉の繰り返し,,,などなど様々な材料を用いて,50×50 cm 四方の箱の中に,立体コラージュ(Assemblage)として,それぞれの学問に対峙している「わたし」を表現していただきました。

図2 「学問的方法に問いかけることば,もの」で作成された立体コラージュ10)
作品には,研究に対する葛藤や自身の専門に対する思いなど,個々の研究者にとってはとても重要な内容でありながら,論文には表され得なかった価値が表現されました。その個々の意味は説明を聞かなければなかなか伝わりません。けれども,参加者はみな一心に作品制作に集中し,わからないからおもしろい,といった多分野融合の場が得られたようにも思います。
まだ夢想の段階なのですが,様々な分野の学会の場においても,このような作品を介して表現し合う場が設けられれば,従来の論文が内包している「わかる・できる」といった価値観のみならず,誠意,ANSHIN性 11),やりがい,,,といった価値観も交換できる場となるのではないだろうか,と思います。
いわゆる「たまり場」がなくなり,コミュニケーションが分断しがちな現代では,異質なものを受け入れる余裕がなくなってきているのかもしれません。学術にたずさわる者が,「高さ・強さ」だけではなく,個々の人生の中にある「低さ・弱さ」を受け入れ合い, 何よりも他者の世界観を「おもしろがる」Art-Science Link Worker なる人や環境を育成すること。それが,現代社会にとって急務であろう,と筆者は考えています 5,6)。
参考:
1.「アートと経済社会について考える研究会報告書」2023
(https://www.meti.go.jp/press/2023/07/20230704007/20230704007.html)
2.富田直秀,「随想:面倒くさい人間であること」(京大工学広報)No.76,2021
(https://www.t.kyoto-u.ac.jp/publicity/no76/essay/6o3guw)
3.アート演習動画(KCA:Kyoto Creative Assemblage)
(https://assemblage.kyoto/art-dis-soluble/)
4.富田直秀,アート視点から見た科学・技術(「質」を実現する日本の方法論「型」),
応用物理,第 91 巻 8 号,2022
5.富田直秀.「できる」依存症社会 , (Art-Science Link Worker)講談社エディトリアル,2025
6.富田直秀,森川健太郎「社会に『質』なる目標を与える『型』
(Art-Science Link Worker:実感する実践者たち)」,『日本哲学史研究』第一八号,2022
(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/268955/1/sjp_18_31.pdf)
7.郡司ペギオ幸夫,「天然知能」,講談社選書メチエ,p233-234,2021
8.わたくし学問研究会 HP(http://kcua-ula.info/watakushi/)
9.臨床雑誌「整形外科」76 巻 13 号,整形外科医療(機器)開発秘話,2025
10. 京都大学サマーデザインスクール,2025
(http://www.design.kyoto-u.ac.jp/sds2025/outline/timetable.html)
11. 富田直秀.日本機械学会誌,117 No.1144. 2014
(https://www.jsme.or.jp/publish/kaisi/140301t_.pdf)
