出たい人より出したい人

岩間 一雄

岩間先生写真都知事選の最中で、京都は関係ないとは言っても会話等で結構盛り上がっている。私にとって興味深かったのは、某女性候補が立候補を表明したときの某政党東京支部の反応である。支部長曰く「何の相談も無く突然な話で非常に不愉快である」らしい。まあ、その候補が現実にその政党の代議士をしているという事実から見れば確かに少し唐突ではある。しかし、その候補によれば周辺には相談しているということだし、立候補すること自体は誰でもできることなんだからして、記者会見してまで「不愉快」を表明することであろうか。更には、その候補がそこまで有力でないなら、こんなことは言わないに違いない。つまり、「強い人が出て来て困った」という訳である。自分の政党から強い人が出て来てなぜ困るのであろうか。

我が国での大学の教員選考は最近かなりオープンになってきた。しかし、少し前までは、例えば私が福岡から京都にきた20 年弱前は、未だそこまでの透明性はなかったように思う。つまりそこでも「出たい人より出したい人」がしばしば選ばれていたように聞く。勿論、両者が大きく異ならない場合や長い目でみれば出したい人の方が結局はよかったという場合の方が多かったことは間違いない。しかしそうでは無かった場合も少なからずあって、そこでは「望外の幸せ」を享受した人もあれば「煮え湯を飲まされ結局挫折してしまった」人もあったであろう。「強い人が出て来て困る」ことが無い様に、分野を細かく指定するなどという小細工もやったらしい。しかし、そもそも「誰が」出したい人をきめるのであろうか。政治や会社の世界では組織がものをいって、それを纏める立場の人が発言力をもつのは自然である。しかし、大学はそこまで組織の世界ではない。単純に強い人がいいのである。

そのころ私が心から尊敬する偉い先生から、「教授の仕事は色々あるけど人事が一番大変や、ただ、人事で実力の無い人だけは絶対にとったらあかん、その人が次にさらに実力の無い人を連れてくるから」と注意された(その先生はもっと強烈な言葉で言われたがさすがにそのままは書けない)。更には(京大教授に相応しい)実力の見分け方についても伝授して頂き、私は人事の場で事あるごとに主張した。常に通ったわけではないがかなり説得力があったことは確かである(書くのは控えるが。。。)

冒頭の支部責任者の「不愉快」発言であるが、自分はいい気になっているかもしれないが、世間はそうは見ない。「なるほど、噂どおり出来の悪い息子やったんやな」というのが平均的見方であろう。結局自分(とその組織)の程度の低さを世間にさらけ出してしまったのである。大学の人事も全く同じことが起きかねない。我が国では評価する方がされる方より偉いと思われているらしいが、実はする側が(どんな評価をするかで)世間から厳しく評価されるのである。これも若い時に諭されたことであるが、学生を試験するのは結局は自分が試験されていることを常に忘れてはいけないと。正論である。

こういった事例は挙げていけば切りがない。オリンピックの代表選考、学会の役員選考、重要な会議の開催地選考、。。。

2 つの思い出がある。一つは数年前のことである。我々のアルゴリズム分野で誰もが認める世界最高最大の会議の招致のことである。その時点で発足してから20 年、一度も北米から出ることがなかったが、ようやく北米以外での開催の可能性を考えているという情報が入った。今はかなり改善されているが、このころまではこの分野での我が国のレベルはお世辞にも高いとは言えなかった。ただ、私はようやくサービスというものの面白さと重要性に目覚めてきた時期で、やってみようかという気が出て来た。幸いにもこの会議を牛耳っているという噂の男を多少知っていたこともあって、京都の可能性はいかがなものかとメールを書いてみた。最初に北米から外に出るなら誰が考えてもヨーロッパで、彼もかなりびっくりしたことだと思う。しかし、流石で、「基盤的に問題がなければ立候補は受け付けられ、2 年前の会議のビジネスミーティングで投票で決まる」という極めて民主的な原則論で答えてきた。基盤的云々に関しても、京都は問題ないということであった。

ということで、立候補したい旨を言って書類を用意した。国際会議の開催に関しては多少経験があったし、チームでやるよりも一人でやった方が効率が良いことも分かっていた。その会議は伝統的にホテルを使うので、その選択さえ間違えなければ雑用はホテルに頼める、時期が1 月なので京都は暇な時期で費用的にも有利、等々色々計算があったのも事実であるが、正直言って勝てるとは思っていなかった。
ということで、我が国の同業者には(研究室のスタッフも含めて)全く相談しなかった。失敗したときに迷惑をかけたくなかったし、「あいつが勝手にやったことだ」と済ませてもらうのが一番簡単である。結果はかなりのサプライズで、ローマ、プラハ、バルセロナ等のヨーロッパ5 都市を破って京都に決まった。二百数十名の投票で、1 都市ずつ落ちるというオリンピック方式で、最後のローマとの決戦は、ほんの数票の差で、単純な挙手ではカウントできず、参加者が部屋の両端に分かれるという接戦であった。(実は直前にはっと気づいて、招致演説のスライドから舞妓さんの写真を除いた。女性参加者の多くが京都を支持してくれたので、この判断が勝負を決めたとさえ思っている。)たとえそれが出したい人と違っていても、そんなことはおくびにも出さず、出たい人の中から最善の人を淡々と決める、という民主的ルールが確立している欧米のすごさと民度の高さをひしひしと感じた。勿論、決まってから我が国の同僚らから「なんで相談してくれなかったのですか」という多くの苦言を頂いたのは事実である。

もう一つが、ヨーロッパの理論計算機科学の研究者を束ねる学会の学会誌の編集長のことである。年3 回発行で、50 年近い歴史がある。最近はそうでもないが、始めのころは正に「超大物」が編集長を務めていた。やはり4 年ほど前に次期編集長を捜しているという情報が入った。ヨーロッパの学会なのであるからヨーロッパから、最低でも北米から選ばれるのが常識であろう。母国語の問題もある。ただ、この学会に関しては我が国からの貢献も結構あったし、上記の国際学会を成功させたという自負もあって、「日本人は対象外かもしれませんが、もしそうで無ければ大いに興味がある」というメールを書いた。意外に早く、2 週間ほどで「貴方にお願いすることが理事会で決まった」というメールをもらい再び感動した。変な小細工をせずに、出したい人より出たい人から考えるという単純なルールが確立しているのである。実に太っ腹である。

実はこの学会は2 つの大きな流れがあって、近年は私が属する流れの方が明らかに強力である。学会の会長はもう一つの流れのグループから出ているので、まあ2 人3 脚という感じで運営してきた。私の流れの方を強調するようなことは素振りさえ見せてはいけないと固く決めて慎重にやってきたが、3 年ほど経過して多少私の考えていた流れが出せて来たかなと思っている。最近になって、会長が変わることが決まって(これも上で言った2 つの流れと、ヨーロッパの北部・南部のバランスという困難な問題が常にあるが、かなり透明なルールを決めて上手く処理している様にみえる)、私は当然進退伺いをだした。新会長(私がかなり良く知っている友人である)は是非続けてほしいということで、しばらくは続けさせてもらえそうである。

国内のサービス的仕事も是非させて頂きたいと(酒の席等で)公言しているのであるが、残念なことに、出たい人の募集がない。更に出したい人の中には全く入れて頂けないようである。近い友人でそういった方面から声のかかる人からは「あんたはアカン」とはっきりと言われているので、仕方が無いと諦めている。出したい人を重視する文化は、それなりの安全性や社会の安定性といった面で確かにメリットがある。ただ、明らかなデメリット(とは考えない人もいるが)があって、それは、出たい人が、出したい人を選ぶ人に不自然な形で接近することである。出したい人に認められない限り出られないことが分かっている場合には仕方の無い事であるが、これが透明性を阻害し更には種々の混乱の元になることも多い。昨今の各種ハラスメントにしても、この事が原因の一つになっているに違いない。一方で、こうした不自然な接近を意識的に避けるいわゆる正々堂々派と言われる人も少なからず存在するが、上手く行かなかった例をいくつか見ている。私自身決してこの派ではない。。。

538 という(ビッグデータを利用して科学的根拠を重視することで)有名な予測サイトがあって、そこではトランプとクリントンの差が縮まっている様である。トランプ氏は明らかに「出したい人」ではなかった様であるが、あれよあれよという間にGOP の予備選を制してしまったし、本選挙も可能性があると言われ始めた。本当になってしまったら米国は(当然日本を含む世界が大きな影響をうける)どうなってしまうのかと本気で心配している人が多いが、どうも我が国は能天気で大きな話題にはなっていないようである。つい先日、カナダから来た友人がトランプ大統領の元での日本の国防の将来、つまり核武装の可能性について、かなり突っ込んだ質問を受けたが、さすがに私も真剣に考えたことが無かったし、たとえ真剣に考えたとしてもまともな答えは出てこない。はっきり言って大きな変化を望まない私としてはクリントンさんに勝ってほしい。が、それは今まで私が延々と述べて来た「出たい人より出したい人」に対する反感に矛盾するようにも見える。難しいものである。

(名誉教授 元情報学研究科)