京都大学で出会った学生達

田村 正行

田村名誉教授私が京都大学に赴任したのは今から12年前、2004年4月である。それまでは、つくば研究学園都市にある国立環境研究所で、衛星リモートセンシングなど環境の計測・解析手法について研究をしていた。京都大学では、前半の6 年間は都市環境工学専攻に所属し、後半の6 年間は組織替えにより社会基盤工学専攻に移った。また、2007年からの5年間は地球環境学堂でも教鞭を執った。今から振り返るとこの12年間は瞬く間に過ぎ去った感があるが、研究所に勤めていたのでは余り接する機会のない若い学生や留学生と交流することができ、時には大変なこともあったが貴重な経験であった。この間、研究室に所属し直接・間接的に指導した学生数を数えてみると50 余名になる。本稿ではそのうち特に記憶に残っている数名について振り返ってみたい。

A君は、私が京大で最初に指導した学生である。私が京大に着任したとき既に修士の2回生になっていたが、研究が進んでおらず、私が指導することになった。1年足らずの短期間で修論を完成させなければならなかったので、環境研から航空機レーザー観測データを譲り受け、その解析をやらせることにした。私が一通り研究課題について説明したときの彼の反応は「この研究のオリジナリティはどこにあるのですか?」というものであった。私としては、オリジナリティもさることながら、まずは何か形のあることをやらせねばと思っていたので、ともかく研究を進めその中でオリジナリティを見いだすようにと諭した。その後、彼自身の努力の甲斐もあって修士論文を完成させ、翌春には無事卒業することができた。それから数年経って、何かの理由で彼の修論の内容について問合せの葉書を書いたのだが、葉書は実家に転送され、お母さんから彼が癌のために亡くなったとの手紙を頂いた。彼は近畿圏のX 電鉄に就職したのだが、病を得てからは半年ほど関東の実家で療養し、その後やはり会社に復帰したいからと大阪に戻って、最後まで大阪で過ごしたとのことである。まだ若いご子息を亡くされたご両親の悲しみ、また本人の辛さ悔しさを思うと言葉もなかった。ただ、彼はご両親も驚くような強さで会社への復帰を目指して頑張り、将来を誓った婚約者が最後まで彼を支えてくれたとのことである。

B君とC君は、私が京大に着任した年に4 回生として研究室配属になった。2人とも同じ体育会のクラブに所属しており、2 人の軽妙な会話はまるで漫才を聞いているようだった。同じ研究室に配属希望を出したのも、2人で相談した上だったのかも知れない。B君の研究テーマは、「衛星画像を使ったマングローブ林の分布図作成」であった。2004年12月にスマトラ沖地震が発生し津波で大きな被害が生じたが、沿岸にマングローブ林のあった地域では津波被害が軽減されたとの報告があったので、東南アジアにおけるマングローブ分布の現況と変化を調べてみようと考えたのである。マングローブ林のように足を踏み入れるのが難しい場所でも衛星画像は簡単に手に入るので便利だが、解析結果を検証するには現地調査を行わねばならない。東南アジアにいきなり行くのはいろいろと困難を伴うので、まずは国内最大のマングローブ林がある西表島で現地調査を行った。西表島の仲間川河口には100haを超えるマングローブ林があり、そこに立ち入るには山道を数km 歩いた後、急坂の踏み分け道を下っていかなければならない。平地まで降りるとマングローブ林に入るのであるが、帰り道が分からなくなるといけないので、マングローブに目印の紐を付けながら進んだ。ところが調査を終えていざ帰ろういうときになって、いつの間にか目印を見失ってしまったことに気がついた。B 君は「先生、帰れるんでしょうか?」と不安そうであったが、私はともかく「大丈夫、何とかなる」と答えて帰りの目印を探した。しかしどうしても目印が見付からなかったので、斜面を薮漕ぎして真っ直ぐ北に上ることにした。北側斜面の上には帰りの山道があると分かっていたからである。

西表島にはハブがいるということが頭の片隅にあったが、幸いにも小一時間ほどの薮漕ぎの後、ハブに出会うことなく山道まで戻ることができた。その後、帰りの山道でB 君の携帯に就職の内定が出たと知らせが入った。便利な時代になったものである。

一方、C君の研究テーマは「衛星センサによる琵琶湖の湖面温度計測」であった。こちらは琵琶湖で現地調査を行ったが、特に大きな問題もなく良い修論を書き上げることができた。数年後、全くの偶然であるが、茨城県の袋田の滝で彼とばったり出会うということがあった。抜き足差し足で私に近づいて来たとき、彼の表情は目を皿のようにしてというのがピッタリだった。私は家族連れだったが、彼も年頃の女性と一緒だった。彼はY製作所に就職していたので、勤務地から袋田の滝まで遠くはなかったのである。この3 月に退職記念パーティを開いてもらったとき、彼からビデオメッセージが届いたが、それによると昨年結婚したとのことである。結婚したパートナーがあのときの女性だったかどうかは尋ねていない。

D君はエジプトからの国費留学生であり、4 年前の2012 年に博士課程に入学した。高校時代はバタフライ泳法のエジプト代表だったという快活な若者であり、30歳前にして既に2児の父であった。修士課程ではGPSの精度予測について研究していたので、博士課程ではGPS とレーダー衛星(合成開口レーダー)のデータを組み合わせて、地盤変動を高精度に観測することを研究テーマとした。入学した当初は衛星リモートセンシングについての知識が殆どなかったため3 年間で学位が取れるかどうか危惧したが、頑張り屋で優秀でもあったので、立派な論文を書き予定通り昨年9 月に博士の学位を取得することができた。彼が京大に在籍している間に、エジプトでは軍のクーデターによって選挙で選ばれた大統領が職を解かれるという事件があった。母国の不安定な政情について、彼も深い関心を持ってSNSで知人達と頻繁に情報交換をしていたようである。一度、彼に軍隊についてどう思うかと尋ねてみたところ、軍は友人であり信頼しているとの答えだった。日本の若者とは大分考えが違うようである。違うといえば、エジプトでは病院の順番待ちも日本とは異なるらしい。彼のお嬢さんが病気になったとき、家内が彼の奥さんに付き添って病院に行ったのであるが、患者が皆おとなしく待っているのを見て、エジプトでは金持ちは待たされることがないと言っていたそうである。いろいろ窮屈な思いをすることもあるが、やはり日本は暮らしやすいのだろう。

今年3月の最終講義の後に開催してもらった退職記念パーティでは、研究室を卒業した学生達がビデオメッセージを寄せてくれた。この12年間に指導した学生達は、20代から30代半ばの年齢層になり、最年長の世代は社会の中堅どころになろうとしている。学生時代から結婚していた者もいれば、未だ結婚の目処が立っていない者も居る。しかし、皆それぞれの分野で頑張っており頼もしい限りである。

(名誉教授 元社会基盤工学専攻)