たくましい工学への期待

伊藤 紳三郎

伊藤先生写真2016年3月31日(木)夕刻、総長の山極先生に最後の報告書をお渡しして京大事務本部棟の玄関を出たとき、陽春の西日にまぶしさを感じながら「お・わ・っ・た!」と心の中で思わず叫んだ。そして言いようのない満足感と、「これで全ての責任から解き放たれ、今宵からは自由な日々が始まる」との思いに、なぜか気持ちが昂るのを覚えた。長年慣れ親しんだ場所から立ち去るときに当然感じるはずの寂しさよりも、喜びの方がはるかに大きかったのだろう。その数時間前に桂キャンパスで開催していただいた離任式では、お集まりいただいた多くの方々の前で気恥ずかしさと共に別れの寂しさがあったのに、不思議なものである。

私が京都大学に入学したのは1969年4月のこと、以来47 年の歳月が過ぎてこの3月末に無事定年退職をすることができた。思えば半世紀近くの長きに亘り京都大学にお世話になったことになる。学生時代、助手・助教授時代、そして教授としての時代、それぞれの時代に右往左往しながらそれなりの努力をしてきたつもりであるが、どの時代にあってもそれほど時の流れを意識することはなかった。しかし終わってみると半世紀とはビックリする次第である。

入学当初2 年間の教養部時代は大学紛争の最中であり大変貴重な経験をさせていただいた。当時の大学の極めて異常かつ興味深い状況については、すでに工学広報No. 54(2010年10月発行、http://www.t.kyoto-u.ac.jp/publicity/no54/foreword/y0qiyw)に書いたので、できればそちらをお読みいただきたいが、その異様な雰囲気の中で18 ~ 19歳の世間知らずの私は、大学での恩師となる先生方との出会い、群衆行動や集団心理の恐ろしさ、大学の社会的役割や学生であることの意味等、平常の時ではなかなか得られない経験や議論を多くの仲間と共にすることができた。その経験がその後の長い大学生活の基礎になったことは間違いない。

それから45年が経ち、最後の2年間は工学研究科長としてそれまでの大学生活とは全く異なる、これまた貴重な経験をさせていただいた。研究室を中心とした活動から、大学組織を中心とした活動に99%のエフォートを移すことにした。研究科長の任期終了=定年退職となることが分かっていた。研究活動に再び戻ることはない。また研究と大学行政の二刀流を使いこなすほどの能力は私にはない。それなら下手に口出しすることなく、研究室の運営の全てを後進のスタッフに任せようと思った。2 年前の3 月末にスタッフの皆さんに集まっていただき、「これからは工学研究科長の職務に専念させて欲しい」と勝手なお願いをした。教授の突然の職場放棄に、さぞスタッフの皆さんは戸惑い、無責任なヤツと思われたはずである。しかし、遅かれ早かれその時は来る。「今度の役目は私の最後の2 年間を懸けて全力で当たるべき重要な仕事になるから・・・」と無理を承知でお願いした。実際、本当に研究室には大変な迷惑をかけてしまったが、退職時に感じた満足感はこの寛容なスタッフのお陰で得られたものだと思う。

さて、覚悟してスタートしたものの、予想通り次々と到来する難題に右往左往し続ける2 年間になった。5% のシーリングに加えて10% もの定員削減計画の策定、紛糾する総長選考会議への参加、意味不明な年俸制の導入、法改正にともなうお仕着せの大学諸規程の改訂、光熱費高騰による工学研究科の財政危機、不完全なデータベースを利用した教員自己点検・評価の実施、学生の深刻な事故への対応、学域学系制度の導入と関係部局との覚書取り交わし、いまだにできない桂図書館の概算要求、研究不正と保存計画の策定等々、今、振り返るだけでも枚挙にいとまがない。もちろん私一人の力で対応できる代物ではない。運営会議の皆さまのお知恵を借り、技術職員、事務部の皆さまの協力を得て、可能な限り情報を共有し、一緒に考え、公正に対処することをモットーに、個々の事案を処理してきたつもりである。その中で強く感じたことは、工学の先生方の同人意識の強さと優しさである。教育研究に日ごろ奔走されている先生でも、こちらから委員等の用務をお願いすればまず100%協力してくださる。さらに技術部、事務部の方も各部署が非常に有能であり、日常業務をこなしながら何か事が起これば強力なサポートをしていただける。学生数6,500 名、教職員、研究員等を含めると約8,000 名もの大きな規模に比例して、質・量ともに課題も多いというのが工学研究科・工学部の運営の難しいところではある。しかし、それらの課題を切り抜ける度に、この大世帯が素晴らしい機能をもち、教職員が一体として働く強い組織になっていると思うようになった。

大学全体となると、なかなかそうは行かない。ご存じのように、理系と文系では教育研究の手法が大きく異なりカルチャーが違うと言っても過言ではないし、また研究科と研究所・センターとでは、部局としての性格に違いがある。全学の委員会やワーキング等の会議で話をしていると、途中で「エッ、そんなことありですか!」と驚くことがある。しかし大学教員にとって「教育」と「研究」は最も重要な業務であり、教育については優れた人材を育成し、研究については創造した知恵を広く社会に還元する、この価値観は大学全体で共有されている。議論はあってもやがては京都大学にとって最適の方向を見出し、協力して内外の様々な問題をなんとか解決していこうという雰囲気が今の京都大学には感じられる。これは大変有難いことである。

ところが外部との関係となると、そうはいかない。大学は社会の中に浮かぶ組織であり、否応なしに対応を迫られる。グローバル化や少子化のような社会現象に対する対応であればまだ分かるが、大学を便利屋のように利用しようとする人、大学をテコに社会のシステムを変えようとする人、社会的な改革・改善が順調に進まないことを大学のせいにする人がいて、かつそれらの人々が政・官・産の指導的な立場から発言されると、法人化された大学はそのような思惑や意見に翻弄されかねない危険がある。大学の使命が「教育」と「研究」にあり「知」をもって人類社会に貢献するという理念を述べても、その一部のみを取り上げ、さらにその意味を非常に狭く解釈する人々とは価値観を共有することは難しい。だからと言って、それらの意見をすべて無視することはできないというのが現実である。

元来、工学は社会に開かれた学術であり、社会のニーズに応えることにモチベーションの源泉がある。上述のような様々な思惑から押し寄せる横波に動じることなく、社会にプレゼンスを発揮する実力が工学の皆さまには備わっていると思う。とかく研究者は自らの教育研究に没頭し、余分なことはしたくないという保守的な傾向に陥りがちであるが、それでは研究者一人一人が拠って立つ土台としての組織は横波に揺さぶられることになる。いらぬ干渉を避けるためには受け身の姿勢よりも攻めの姿勢が重要である。社会を発展させる学術研究に、未来を担う人材育成に、現状に満足せず、環境の変化を見据えて常に改革の姿勢を見せることが、工学の本来のミッションを貫くために重要である。

国にはお金がない。ない袖は振れないのである。そしてもっと悪いことに、大学を所掌する今の文部科学省には、「国は人なり」の理念を声高らかに主張し、政・官・産を主導する力がもはやなくなっている。このような状況を考えると、工学研究科は可能なかぎり外部の様々な組織と連携し、自らがしたたかに改革を進めることにより、少々の横波にはビクともしない体質を整えておくことが重要であると思っている。工学は京都大学の中でもそうすることができる最も有力な部局である。工学研究科がその力を発揮して、より強く、よりたくましく発展されるように期待している。

ここに至るまで工学研究科の教職員の皆さまの温かいご協力に支えられて任期を終えることができた。末筆ながら、皆さまに心より篤く御礼を申し上げる。

(名誉教授 元高分子化学専攻)