なぜなぜ期が終わらない人への学部教育という救い

東北大学 大学院情報科学研究科システム情報科学専攻 助教 横井祥

横井先生 卒業生紹介のページをいただきました情報学科卒の横井祥です。学部卒業後は東北大学で修士課程・博士課程を過ごし,今は同大学で自然言語処理の研究をしています。この小さな記事では,これから大学に入ろうと思っている人や入ったばかりの人に向けて,自分の中の納得への欲求が大学教育によって救われたという話を記してみたいと思います。

 私は2歳ではじまった質問期がその後一向におさまらなかったくちです。納得できるまで周りに質問し続けていたうるさい幼児は納得できるまで調べ続け議論し続けるうるさい大人に変化しましたが,納得したいという欲求を抑えられないという本性はあまり変わっていないように思います。そんな自分にとって,学部生活を通して分からなさに対応するための方法をある程度身につけられたことは想像以上の喜びでした。大学に入ったことは人生で最良の選択のひとつであったと断言できます。

 残念ながらその具体的な方法をここで明解に言語化することは困難です。頭と身体を無意識に動かせるよう特定の技術を修得することとノウハウを言語化して意識の上に取り出すことが相反するからというのが大きな理由です。無理に列挙しようとするなら,たとえば辞書・事典にあたること,定義に戻ること,簡単な例を作ること,道具は実際に使って理解の度合いを確認することなど一見有用そうな文句を並べることはできるでしょうが,具体的な活動を通じて身体で覚えない限りこれらの文字列は大きな意味を持ち得ないでしょう。

 それよりも,なぜ学部生活を通じて理解と納得のための作法を身につけることができたのかを振り返ってみる方が有用に見えます。大きな理由のひとつは,納得パラノイアの先輩である大学教員や優秀なクラスメイトたちの振る舞いを身近で見られたことです。教員の「ここは難しい点で…」とか「私の専門ではありませんがお隣にこういう分野があって…」といった発言を通じて彼らがどのように対象に向き合い語るのかを学ぶことができたということです。クラスメイトがアイデアを思いつくなり手元のノートで検算をはじめる様子を見て,あるいはただ寝転がりながら教科書を繰り返し読みストーリーを把握するのが試験勉強なのだという話を聞き,いかなる習慣が知の蓄積に繋がり得るのかを知ることができたということです。

 もうひとつ,1回生の段階から専門科目を履修しつつ他学部の講義を自由に聞くことができるという環境も訓練の場として望ましかったように思います。LaTeXのみが許可されるレポートが毎週課せられる専門科目にはじまった濃密なカリキュラムは,専門性,つまり分野の重要な考え方や参照すべき文献といった土地勘を得るためにもちろん有益でしたが,新しい分野に分け入るための試行錯誤の仕方それ自体を身につける実地訓練となっていました。また,同時期に他の学問体系を覗き見できたことも得難い経験でした。数学教室の教員による微積分や線形代数の講義・演習は静かで穏やかな空気の中しかし演繹という強い規範に律されて積み上げられ,一方で10号館から徒歩1分の文学部校舎での科学哲学の講義は統一理論などまだ存在しないがそれでも対象を特徴付けたいしその過程が面白いのだという全く異なる種類の喜びを持っていました。こうした小さな経験が諸分野の分厚い歴史と固有のディシプリンへの敬意を育み,また「なぜ」と問い続けることには一生を捧げる価値がありそうだという確信に繋がったのだと思います。

 なぜなぜ期が終わらない仲間たちに大学はいいぞという気持ちが伝わったならこの記事を書いた甲斐もあったというものです。最後に,とてもお名前を挙げきることはできませんが,在学中にお世話になったすべての先生がたと学友たちに深く感謝申し上げます。京都大学で過ごした4年間がなければ今の自分はありません。

(情報学科 2015年3月卒業)