パスポートと切符

名誉教授 河合潤

河合先生 研究室の2代前の教授近藤良夫先生(1924-2011)(元工学部長)が,採鉱冶金学教室をルーツとする同窓会の「水曜会誌」に書いた文章に次の一節があった。「1987年に私は定年を迎え,退官した。現役時代の制約はなくなり,途端にいそがしくなった。また大学以外の人には当たり前のことだが,パスポートと切符さえ持って伊丹へ行けば,外国へ旅立てることが無性にうれしかった」〔近藤良夫:一人だけのクワルテット,水曜会誌, 22 (2), 61-65 (1994)〕。登山・製錬冶金・移動現象・品質管理(QC)の四重奏について書いた近藤先生のこのエッセイが出版されたのは,僕が理研から京大冶金学科へ赴任した翌年だった。
 定年を少し意識しはじめたころに,この一節をふと思い出して再読した。今ならWebで見つかる。独自のQCで現役時代より忙しい近藤先生の定年後を理想だと思った。
 休み時間に裏山で蛇イチゴを食べるような小学生だった僕は,山間の小学校から新教育を実践する国立大学の附属小学校へ3年生で転校した。クラスで僕だけ九九ができなかった。理科好きの同級生たちの影響で,化学実験と電気工作にハマった。チオ硫酸ナトリウムを写真屋で買って,同級生たちとヨードチンキの色を消す手品をした。変調トランスを特注して1ワットの無線送信機を全部自分で手作りした。受信できた。もちろん無線の免許も取っていた。
 東大理科I類に入学すると,京大のポケットゼミに相当する少人数ゼミをたくさん履修した。その中に工業分析化学のゼミがあった。ゼミのあと卒論生が研究室を見せてくれた。X線装置を米国製卓上コンピュータにつないだところだった。まさに化学+電気だった。専門に決めた。趣味が仕事になった。それ以来,定年まで研究のことばかり考えてきた。実験がうまくいかなくても一晩熟睡すると新しいアイデアが浮かんだ。その少人数ゼミから4人が同じ学科へ進学した。
 近藤先生のエッセイを思い出して再読したころから,変わった依頼が舞込むようになった。刑務所や拘置所に収監された人から郵便が来た。支援者や弁護士から「有罪の証拠となった科学鑑定が間違っていることを明らかにしてほしい」という依頼もあった。
 公表を条件にかかわった何件かの事件では,①鉛をヒ素に間違えた鑑定があった。初心者はよく間違える。②酸(acid)と酸化(oxidation)を混同したもの,③2つの測定値を引き算すると誤差が相殺して,鑑定は高精度だと主張するもの。和も差も誤差は増大する。④対数計算によって,違うロットの毒物を同一ロットに見せたもの,⑤ブランクテスト(空試験)をしてないもの,⑥無実を示すデータは消去した,という趣旨の証言を記した公判調書まであった。
 空試験をしない鑑定は無効だと指摘したことがある。それに対して,空試験は「予試験(機器の正常動作確認)レベルで行われるもの」であって「本件における他の多くの鑑定においても,ブランク(値)データは示されていない」という括弧の多い「決定」が出た。法廷を開いて言い渡すのが判決で,法廷を開かないのが「決定」だ。
 放火鑑定に使われる分析装置が1990年代に高感度化した。火事で炭化した木片は,写真フィルムケースや自治体指定のゴミ袋などに入れてラボへ持ち帰っていたという。炭化した木片は合成樹脂に含まれる可塑剤を良く吸着する。可塑剤のスペクトルは,高温で変質した高濃度の灯油に見誤るから,テフロンコートしたサンプル瓶を使うべし,という論文が出たのは2003年だった。証拠品と同じ条件で運んだトラベルブランクを使った空試験をしていたら,最初の鑑定で可塑剤に気づけたはずだ。空試験は「予試験」や「機器の正常動作確認」とは違う。
 僕の専門のX線分析装置は研究室の学生・技官・教員たちと手作りした。京大の自由の学風の下で恵まれた30年間を過ごした。X線は強いほど高感度になるのが常識だから,市販の装置はキロワット級や数十ワットのX線管を使う。1ワットでも,いや,1ワットだからこそ,シンクロトロンを凌駕する高感度分析に成功した大学院生がいた。この院生は堀場雅夫賞(特別賞)を受賞した。
 真空中で氷砂糖を叩くとX線が発生するのを発見した卒論生もいた。氷砂糖キャンディーは不斉炭素からなる2センチメートル大の単結晶だからピエゾ効果がある。フランシス・ベーコンの日記(1605)には氷砂糖を暗闇で切ると光ることが書いてあるという。X線の発生には真空が必須なので,口中で氷砂糖を噛んでもX線は発生しない。
 3ミリワットの微弱X線でも高感度分析に成功した学生がいた。学会で報告すると,専門家ほど驚いていた。学生は自分の発表に驚く専門家を見て,3ミリワットがどうやらすごいらしいことに初めて気づいたという。報告の主題は微小電力ではなく,偏光X線による高感度分析だった。
 常識を覆す研究を目指してきた。①~⑥として列挙した鑑定の間違いを見つけるのも,似ている。
 被告が犯人であることは「合理的な疑いを入れる余地がないほど高度の蓋然性を持って認められる」とする確定審の判決の根拠となった科学鑑定が,実は「妥当性を欠く」「証明力が減退した」「正確性を欠く」「前提を欠くものであった」とする決定や判決が最近になって相次いで出た。僕にも,パスポートと切符に相当する仕事が見つかった。

(材料工学専攻 2023年3月退職)