木鶏たりえず

名誉教授 清野純史

清野先生 1983年(昭和58年)に京都大学工学研究科修了と同時に宇治キャンパスの防災研究所の助手に奉職し,爾来,山口大学工学部,京都大学地球環境学堂,そして工学研究科と研究・教育の環境を変えつつ40年の月日が経った。
 この度,この「随想」執筆の機会を与えていただき,これまでの私の研究・教育の履歴とはまた違った面からのお話を書かせていただこうと思う。それは,2022年に創部100周年を迎えた京都大学ラグビー部,そしてラグビーという競技とのかかわりの話である。

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 私は埼玉に生まれ,中学の頃まで野球をやっていた。当時は読売ジャイアンツが日本一を一度も譲らない9連覇を成し遂げている最中であり,昭和30~40年代の文化を背景にした正に『巨人・大鵬・卵焼き』の時代で,ご多分に漏れず後楽園にはよく友達と巨人軍の応援に行った。王・長嶋の全盛期である。京都大学に入学して,周囲の人間がみな阪神ファンであることと関西人の気質にまず一番のカルチャーショックを受けたことを覚えている。
 地元中学の野球部は今でいう先輩のパワハラの塊のような部で,野球そっちのけでバットを脚に挟んだ正座(まじめにやってるのかと問われ,やっていると答えればそれでまじめにやっているのかと言われ,やってないと答えればだから反省させているんだと言われ,どちらにせよ正座は続く)や,けつバット(先輩がバットスイングをお尻めがけ行う),バックネットによじ登らされてセミやカブトムシの真似をさせる(そこで鳴けと言われ,セミはミーンミーンでいいが,カブトムシはカーブカブカブと鳴かされた),夏は肩が冷える(たかが草野球程度で)から水泳禁止などなど,それでもよく野球を続けたもんだと思うが,今となっては懐かしい思い出と化している。
 そんな訳で埼玉県立浦和高校に進学した際には,その自由・闊達な雰囲気の中で,2つ上の兄に誘われて唾で皮のボールを磨くラグビー部に入部した。そこには中学の頃の部活動と全く別の世界が待っていた。素晴らしい監督の指導の下で,当時は埼玉県内で新人戦,春の大会,国体予選,夏の大会,花園(全国大会)予選などの試合は決勝,準決勝の常連だった。花園の埼玉県予選の私の三年間の戦績は,決勝,準決勝,準決勝での敗退で,もう一歩というところで憧れの花園に行くことができなかった。
 そんなある日,京都大学ラグビー部から一枚のはがきをもらった。「俺たちと一緒にラグビーをしよう」,ただそんな内容のはがきだった。当時,京大はラグビー大学選手権に出場するほど強く,テレビで見て憧れを抱いていた大学でもあった。
 工学部に入学後,すぐにラグビー部の門をたたいた。部長先生は,総長になられる前の西島安則先生,監督は昭和の初めの日本代表の一員でもあった岩前博監督だった。そのころ京大ラグビーは関西のAリーグに属し,同志社や天理,京産大や関学と戦っていた時代である。この岩前監督は「ラグビー十則」という奥義を我々に示してくれた。
 勇猛果敢なフェアプレーの精神,新渡戸稲造も文武の徳の基本と謳っているこの精神がラグビーにはある。トライをとっても,サッカーのゴールを決めた者だけが走り回ってアピールするような真似はしない。それがボールをつないだ15人の絆の結果であり,相手へのリスペクトも含むものだと知っているからである。
 その十則とは以下のようなものである。
1. Rugger Man is a Gentleman (心構え)
2. Always on Move (グランド)
3. Always on the Ball (試合)
4. With Anticipation (プレイ)
5. Without Hesitation (プレイ)
6. ☆極意 <無> (プレイ)
7. 要点え(ママ)の戦力集中 (戦術)
8. Attack is the Best Form of Defense (戦術)
9. Tackle is the Best Form of Attack (戦術)
10. Better Side Won (反省)

☆“球心身の一致” 1973-6 岩前 博

 ラグビーの真髄が凝縮された至言である。入学時には理解できなくても,学年が上がるにつれ,その一言一言を自分なりに理解し,解釈できるようになった。ただし,最後までその境地に至らなかったのは,『極意 <無>』である。煩悩の権化のような若者がわかるような言葉ではなかったのであろう。
 ラグビーは,最近諸説でてきてはいるが,慶應大学の学生に英語講師のE.B.Clark氏が伝えたのが始めとされている。その後,下鴨神社の境内にある糺の森で京大の前身である三高生徒が,慶応の学生と初めてラグビーボールを蹴ったのが関西ラグビーの起源である。そのため第一蹴の地と呼ばれる。境内にはラグビーを始めとする球技上達の御神徳があるとされる神魂命(かんたまのみこと)が祀られている雑太社(さわたしゃ)があり,その隣に「第一蹴の地」の記念碑が鎮座している。ラグビーワールドカップ2019の組み合わせ抽選会が京都で行われた際にも,世界各国の代表がこの地を訪れている。
 私は2000年から京都大学のラグビー部の部長を22年に亘って続けてきたが,20年ほど前に当時の尾池和夫総長からお電話をいただいた。文学部の図書館にE.B.クラークの胸像があるので見に来いという内容だった。すぐに文学部図書館に行き,あの有名なクラーク氏(北大のクラーク博士(W.S.Clark)とは別人)と対面することができた。これが日本の学生に初めてラグビーを教えた人か。その人が,京都大学でも講師をされていたらしい。どのような経緯で京都大学に来られ,どのような活動をされ,なぜ胸像まで残されているのか,一度しっかり調べてみようと思いながらも今日に至ってしまっている。
 私の出身校の県立浦和のラグビー部は,最近では2013年と2019年に花園出場を決めている。私は,部長になってから折に触れ,私が京都に来たきっかけとなった「京大で全国の仲間と一緒にラグビーをやろう」というはがきを,京大を希望しそうな浦高ラグビー部の3年生と浪人生に送っている。その中の何人かの親御さんから,昔日の私と同じように机の前にはがきを飾って,日々勉強に取り組んでいたという話を聞いた。もちろん,めでたく受かった子もいれば残念ながら願いが叶わなかった子もいる。でも,高い目標に向かって勉強をし,日々精進した過程こそが何物にも替え難い宝となっているであろう。

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 大学に奉職して40年経っても<無>の境地とは程遠く,極意も得られず,いまだ煩悩だらけの自分にとって,昭和初期の大横綱・双葉山が70連勝を阻まれた時に吐露した「我いまだ木鶏たり得ず」の故事・木鶏の境地にいつになったらなれるのだろうか。

四十年の 星霜を経て 行きつけば
はるか向こうへ また新しき道
(2023年1月1日詠)

(都市社会工学専攻 2023年3月退職)

文学部図書館にあるE.B.クラーク氏の胸像
文学部図書館にあるE.B.クラーク氏の胸像