ベルリンの思い出

名誉教授 高野靖

 私は1982年に建築学専攻の修士課程を修了後,電機メーカの研究所で音響関係の研究開発に従事し,1986年9月から約1年間,西ベルリンにあるベルリン工科大学に留学しました。ご存知のように,ベルリンは第二次大戦後に米英仏ソ4ヵ国の共同管理となりましたが,1949年に市の中心部を含む東半分がソ連により占拠されて,東ドイツの首都となりました。残った米英仏が管理する市域は「西ベルリン」として東ドイツ内の飛び地となりました。西ベルリンは狭いというイメージをお持ちの方もいらっしゃると思いますが,東京都区内と同等の面積があり,広々とした公園や森もある200万都市としては十分な広さがありました。物価が高いことを除けば,生活も西側と変わりがありません。ただ,東ベルリンとの境界線付近には,ベルリンの壁を越えようとして亡くなった方々の名を刻んだ十字架や,窓がレンガで塞がれた東ベルリンの建物群などがあり,この場所が冷戦の最前線であることを暗示していました。1989年9月に「壁」が崩壊したときは,どうしても自分の目で現場を確かめたくなり,たまたま予定していた12月の欧州出張への出発を早め,ベルリンに立ち寄りました(写真 1)。今も自宅のどこかに色のついたコンクリートの破片が眠っています。

写真 1ベルリンの壁(1989年12月)
写真 1ベルリンの壁(1989年12月)

 私の留学の目的は,さまざまな機器から発生する騒音の制御のため,振動が伝搬して放射される音の予測制御に関する最新理論を学ぶことでした。欧州では音響分野などの基盤技術分野の研究も盛んで,ベルリン工科大学のITA(音響技術研究所, Institut für Technische Akustik)の他にも,アーヘン工科大や英国のサウサンプトン大などにも音響関連分野の研究拠点があります。当時所長のManfred Heckl教授(写真 2)は,構造体を伝搬する振動をエネルギー的に解析するSEA (Statistical Energy Analysis)法の基礎を築いた世界的に有名な研究者です。SEA法は,スパコンも無かった1960年代に,アポロ計画においてロケット発射時の音による電子機器の故障を防ぐ構造の開発にも利用された技術です。先生は一見複雑に見える問題を単純な物理モデルに置き換えて解決することを得意とされていました。私が日本で音の数値解析手法の研究を行っていることを知ると「私は数値解析のようなBrutalな手法は好きではない。複雑な構造であっても単純な物理モデルの組み合わせに置き換えて,実験や解析でそれぞれのパラメータを同定できれば,問題を解決できる。」とおっしゃっていました。先生がかつて在籍した米国のコンサル会社の元同僚も,多忙な業務の傍ら「物理モデル」の構築に関する論文を毎月のように執筆されていたHeckl先生をよく覚えていました。ITAでは毎月,音響分野の研究者による最新の研究に関するセミナーがありました。あるセミナーではドイツ航空宇宙局の研究者が,一次元マイクアレイを用いた高速鉄道車両の台車からの騒音源探査に関する,メーカとの共同研究を紹介していました。私は国の研究機関がメーカと共同研究を行っていたことに大変驚きました。帰国後,偶然にも新幹線の高速化のための空力騒音低減の研究を担当することになり,この研究を参考に二次元マイクアレイを開発しました。走行中のパンタグラフから発生する空力音源を把握することに成功し,後にITAのセミナーでも研究成果を報告しましたが,そのときのHeckl先生とドイツ航空宇宙局の担当者がとても喜んでいた顔を今でも覚えています。

写真 2 Heckl先生(右)とともに
写真 2 Heckl先生(右)とともに

 ドイツの大学ではもう一つ私が驚いたことがあります。私は,別の留学生と同じ部屋で机を並べていたのですが,ある日その留学生が自分の部屋の中に実験装置を組み立て始めました。装置は加速度センサーの取り付け部の剛性が弱く,正確な測定が難しいように見えたのですが,翌日,研究所のWorkshopの管理者が部屋に飛び込んできて,「実験装置の製作はWorkshopに任せなければ実験の精度は保証しない。」と言って作りかけの装置を持って行こうとしました。マイスター制度という技能検定制度のあったドイツでは,学生や研究者は実験装置の製作には手を出さないという暗黙のルールがあったのだと思います。マイスター制度は一般に技術革新が生まれにくくなるなどデメリットがあるとされています。しかし,機械設計を専門としない研究者が,精度の高い検証実験を容易に行える点では効果があると思われます。
 私が研究対象としていた音は,エネルギーを消費し仕事をするすべてのモノから発生するため,すべてのヒトは音に囲まれて生活しています。近年は,屋外の交通騒音のみならず,スマホなどヒトの近傍で音を発生するモノも増加しています。欧州では音による健康被害が問題となり,環境騒音の低減を目的としたEU指令も発令されています。モノからヒトに伝搬する音の制御には,モノから放射される音の発生,放射された音のヒトへの伝搬,ヒトに伝搬した音の評価,のすべてを考慮して最適な解を求める必要があります。また,先述の新幹線のパンタグラフからでる空力騒音の発生メカニズムを明らかにするためには,流体解析と音響解析を組み合わせた考え方(Multi-Physics)が必要となります。空力騒音解析の第一人者のFfowcs Williams先生を訪ねてCambridge大学を訪問しましたが,先生がいらっしゃったEngineering Departmentは多数の研究所群の中一つの建物でした。英国のOve Arupは,”Engineering is not a Science” との言葉を残しています。Scienceは個々の現象を調べて一般法則を見出し,Engineeringは得られた一般法則を組み合わせて個々の問題を解決するものであるというものです。このEngineering Department(工学科)は,まさにArupの言葉どおりのEngineeringを実践していた場所だったのだと思います。建築分野では,最近「建築的思考」という言葉も使われています。私はこの言葉は,ヒトを含めたMulti-Physics Engineeringであると捉えています。
 日本の工学分野では,問題解決のためのScienceの研究を行うEngineering Scienceが盛んです。研究成果に対して,福井謙一先生を始めとする多くの工学部出身者にノーベル賞が与えられています。私はこのEngineering Scienceと,Multi-Physics を組み合わせた研究を行うことが,今後の課題であると考えています。Multi-Physicsを実践するためには,複数のScience分野に関する基本的な知識が欠かせません。また,ヒトを対象とする研究では,ヒトの文化的な背景を知ることなども大切です。このため,自分の専門分野のみでなく,他の分野の基礎的な知識,さらには歴史や文化・芸術を含めた知識も重要となると考えます。昨今の入試改革で入試科目を削減する動きも多いですが,高等教育において,いわゆる文系科目と理系科目をバランスよく学習することが,将来の発展に寄与すると考えています。

(建築学専攻 2023年3月退職)