京都帝國大學 理工科大學開設125周年に寄せて
京都大学工学部の歴史は,1897(明治30)年6月に京都帝国大学が創設され,分科大学の一つとして同年9月に理工科大学が開校したことに始まります。その後,1914(大正3)年7月,理工科大学は理科大学と工科大学に分離され,1919(大正8)年2月には分科大学から学部制に改められて,工科大学が工学部となりました。以下本稿では,この京都大学の創設とともに開校された理工科大学について述べたいと思います。なお本稿でとり上げる創立時の事実の一部については,京都大学創立125周年記念事業特設サイト「京都大学のあゆみ」¹,工学部・大学院工学研究科沿革²に記載されている情報を出典として参照しています。
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京都帝国大学の創立にかかる建議は,明治20年代後半に,当時の文部大臣西園寺公望(さいおんじきんもち,1849~1940年)が計画し,1895年に日清戦争で得た賠償金をもとに第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案をしました。上京区吉田町(現左京区吉田本町)にあった第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し,高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され,翌年予算措置が可決されました。そして,1897(明治30)年6月18日,勅令第209号が制定され,京都帝国大学が創立されました。京都帝国大学では最初に理工科大学(理学部と工学部の前身)が置かれ,次いで法科大学(法学部の前身),医科大学(医学部の前身),そして文科大学(文学部の前身)が置かれました。理工科大学で最初に置かれたのは土木工学科と機械工学科でした。それから3年後の1900(明治33)年7月14日,第1回卒業証書授与式が挙行されています。
東大と異なり,理科と工科を一つにまとめて理工科大学にしたのは,理科と工科に共通する科目を削減することで経費節減が図られたとする説もありますが,なにより目指されたのは,基礎と応用を一体化させたいという狙いがあったようで,このポリシーは現在の工学部・工学研究科においても脈々と受け継がれています。
ところで,並末信久(2005)によれば,京都の地に帝国大学をつくる構想は,最初の帝国大学(現在の東京大学)の創立の頃からあったそうです³。その創設理由は,東京に唯一存在した帝国大学(現在の東京大学が帝国大学になるのは1886年ですがそれに先立ち1877年に創立されていた)の競争者となり,相互に刺激し合うような状況を生み出すことで,唯一の帝国大学の退歩をくい止めるためであったそうで,すでにそのための建議案が1892(明治 25)年の第4回帝国議会に提出されていたということです。これだけを聞くと,京大は東大の当て馬だったのかと皮肉を言いたくもなりますが,この状況であったからこそ,後発の京大は大学のあり方について,東大とは異なるポリシーをもって独自に追求しなければならない立場におかれました。そのための方法として,一つは研究業績を上げること,そして二つは異質なカリキュラムなど独自の教育体制を組むことであったと潮木守一は述べています⁴。初代総長には文部省専門学務局長の木下広次氏が就任し,当時の総長の意向もあって、京都大学では「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用し,ドイツの大学のシステムに倣うことになりました。ドイツの大学は当時,「研究を通じての教育」あるいは「研究と教育の統一」という原理を強調しており,これは現在の本学の「自由の学風」に影響を与え,京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となったと言われています。
その後1914(大正3)年7月,理工科大学は理科大学と工科大学に分離されました。一つの分科大学にまとめられていた理科と工科は,学術研究の進歩とともに,より学理的な追究を行う前者と応用的な学問を中心とする後者に分かれることとなり,理科大学は数学・物理学・純正化学の3学科(11講座),工科大学は土木工学・採鉱冶金学・機械工学・電気工学・工業化学の5学科(26講座)に分かれた2つの分科大学としての再スタートとなりました。当時の工科大学の工業化学教室は,理科大学の純正化学科の建物と隣接するという地理的条件も幸いしていたようで,教育面では,工業化学科の学生に純正化学科の基礎科目,有機化学,無機化学,物理化学などの基礎学問を自由に学ばせたそうです。ちなみに工業化学科という名称は,「工業に繋がる化学の学科」ということで当時の中澤良夫博士が名付けたと言われています⁵。続く1919(大正8)年には,大学についての包括的な法令である大学令が施行され,初めて公立・私立大学が認められるとともに,従来の分科大学は学部に改称されました。京都大学でも,この年4月に法・医・工・文・理の各分科大学が学部に改称されています。
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本稿の執筆にあたり,京都帝国大学 理工科大学の創設期について振り返る機会を得ることができました。京都大学工学研究科・工学部では,現在掲げるスローガンとして,「基礎研究と応用研究を一体化し,研究を通じての学びで考える力を鍛え,地球社会に対して責任を取り続ける」を謳ってきていますが,この源流が京都帝国大学 理工科大学の創立時にあったことに気づかされます。まず「基礎研究と応用研究を一体化させる」ことについては,東大と異なり京大では理科と工科を分離せずに理工科大学の分科大学として開始されたことが,応用をしっかり認識したうえでの基礎をやるという考え方に結びついたと言えます。そして,理科と工科の隔てなく,基礎学問を重視し学生たちに自由に学ばせたことが,その後1981年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士(1918〜1998年)をして「類い希な自由な学風」と言わせしめた文化を独自に定着させたのでありましょう⁶。さらに「研究を通じての教育」という本学・本研究科に固有な学びのスタイルは,その背景に京都帝国大学の創立時に先立ち創立されていた帝国大学(現在の東京大学)との差別化を意図したが故に,ドイツの大学をモデルとした「研究を通じての教育」という原理に行きつき,これが「自由の学風」を根付かせる端緒になりました。このような独自の学風が,これまで本学での多くの研究者の才能を開花させる環境を提供してきたことは疑いようもなく,今後もこの精神と誇りを堅持し,教育と研究の充実を図り続けて参りたいと思います。
(機械理工学専攻 教授)
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¹ https://125th.kyoto-u.ac.jp/history
² https://www.t.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history
³ 並松信久(2005). 京都帝国大学と報徳主義―岡田総長退職事件をめぐって―, 京都産業大学論集, 人文科学系列 第33号,pp.46-73, 2005.
⁴ 潮木守一(1997). 京都帝国大学の挑戦, 講談社学術文庫,1997.
⁵ 古川安(2020). 喜多源逸と京都大学工学部における化学の伝統,化学と教育, 68(1), pp.16-19, 2020. なおこれとは別に京都大学工学部化学系百年史によれば,「工業化学」の名称は京都帝国大学理工科大学創立時に初代学長を務めた中澤岩太博士(中澤良夫博士の実父)により,「化学の応用ではなく,工業のための化学」としてすでに提案されていた.
⁶ 米澤貞次郎, 永田親義(1999). ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風, 化学同人, 1999.